長野県製糸場の設置と払い下げ

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長野県では、米国での生糸の評価を維持するために、生糸改所開設の機運が盛りあがってきた。明治十一年(一八七八)六月に生糸改所仮規則が公布され、提糸(さげいと)造りの生糸はすべて改所の検査を受け、巻紙印紙を貼付(てんぷ)しなければ販売できないものとされた。しかし、実際には製糸改良上、さしたる効果がなかったばかりか、印紙税の課税機関視されていたため、同十三年には県内製糸業者が同盟して、製糸の方法に注意し、精良な生糸を生産して評価を高める目的で、友誼社(ゆうぎしゃ)を結成した。同年三月の設立集会には埴科郡では佐竹直躬(豊栄村)、神戸文右衛門(同)、小林繁(同)、宇敷則秀(西条村)、上水内郡の杭全(くまた)鉄之助(中御所村)が参加した。

 明治十三年三月に、友誼社から県に提出された建議書によれば、当時の製糸改良上、つぎのような事項が指摘されている。①座繰(ざぐり)製糸は小枠より大枠へ揚げ返すさい、綾振(あやふり)器を用いないものがあり、また切れ口をつなぎとらず、そのまま投げかけて揚げ返す習慣が残っている。揚返器械に綾振装置をつけ、切れ口をつなぐべきである。②座繰製糸は従前の提造を廃止し、捻造(縒糸(よりいと))に改正すべきである。③座繰製糸に用いる大枠尺度は周囲五尺(一五二センチメートル)に定めるべきである。

 このうちの第二項は座繰糸を、従来からの提糸造りとせず、揚げ返し器械にかけて、器械製糸と同様の捻造とすることが重視されたのである。当時、(蒸気)器械糸の市価の失墜(しっつい)につながるこの行為は「偽製濫造(ぎせいらんぞう)」と非難され、規制が叫ばれていた。この偽製濫造は明治十三年一月の県勧業課から生糸改所検査長にあてた「提糸ニテ器械製糸ヲ真似(まね)ル者ノ取締(とりしまり)」、同十五年五月の製糸家の大野誠県令あて「請願書」にみられる。この請願書では、数年以前にあってはもっぱら提糸のみであって、粗製濫造はたいへん多かったが、逆に器械糸はまだ数量が乏しく、その弊害(へいがい)はなかったと、いい切っている。ただし、後者の弊害なしは過言であって、実際には明治八年当時、米国市場での信州器械糸の評価はかんばしいものではなかった。そこでニューヨークの日本領事らが、わが国器械製糸家に猛省をうながした結果、十、十一年ごろになると、米国市場で評価が高まり、しだいに中国糸を駆逐(くちく)するようになっていった。

 このように、器械糸の声価が米国で高まり、提糸の偽製濫造が問題になっている時期に、長野県製糸場の設置問題が日程にのぼったのである。

 長野県はしばしば告諭を発して、評価を落とす粗悪生糸の取り締まりに尽力したが、改善されず、県勧業課長の本多勝抦は模範製糸工場を建てるよう主張した。おりしも、明治十年八月に政府の勧業局書記官速水(はやみ)堅曹が、長野県下の製糸場を巡回したあと、製糸品位の向上をはかるための模範となるべき製糸場を県庁の南に設立すべきであると勧告した。

 長野県は速水の意見にしたがい、明治十年、大里忠一郎を雇いいれ、富岡製糸場にならって、模範工場の設立に取りかかった。たまたま明治天皇の巡幸が同十一年十一月と決まり、そのさい、同製糸場を県内製糸場の模範として「天覧」に供するために、建設計画が急がれた。しかし、一万一八五〇円というぼう大な建設資金の調達に難渋(なんじゅう)し、十一年六月に内務卿(ないむきょう)伊藤博文あてに国の補助金として長野町箱清水の字大峰一等官林の松木一五〇〇本(その代金三六四円余)の払い下げを申請したが、拒否された。その結果、県税のうちから二五〇〇円を支出し、残りは安曇村薪炭(しんたん)収益金(政府への販売代金)をあてて、竣工にこぎつけた。七反八畝の敷地に間口二三間、奥行五間、一一五坪(三八〇平方メートル)の工場を建て、汽罐(きかん)(ボイラー)は二二〇〇円余もする英国製のものを据えつけ、器械は鐘鋳(かない)川の水を分水し、水車を動力とした。大里を工場経営者とし、松代町横田英を製糸教師として、同年八月から操業を始めたが、五〇人の製糸工女は県下各製糸場から二五人を選びだして雇い、残りは有志のものを募った。

 明治十二年になって、就業規則である製糸場内規則・事業規則・教師心得、寄宿舎の使用規則である工女取締規則(工女へ口達)・工女寄宿所規則などが公布され、県内製糸場の模範とされた。また、翌十三年には県下各地の製糸場指導者を養成するため、工男五人を採用して、製糸の学理と実習を学ばせた。

 しかし、経営的な実態は、はかばかしいものではなかったらしく、明治十一年十一月に速水が再び県内製糸場を巡回観察し、その一環として県営製糸場を一見した印象は、「五〇人繰りでかなり整頓(せいとん)しているが、官業であるため永続はむずかしい」というものであった。じっさい、県製糸場の年間製糸高と六工社のそれを比べてみると、いちじるしい違いがあった。前者の十二年のそれは四〇六貫(工女六八人)にすぎなかったのに対して、十年の後者は六〇八貫(工女五〇人)と、五割も多かった。

 明治十二年一月に工場監督の大里は西条村製糸場経営の多忙を理由に辞職し、横田は同十三年八月に解職となっている。同十四年にいたって、長野県製糸場はその設立の趣旨を十分達成したとして、経営が民間に委託(貸し下げ)され、まず、小諸町の製糸家で友誼社会頭の高橋平四郎が引きうけた。生産された生糸はフランスへ輸出されたが、日本の商権回復を目ざした横浜の連合生糸荷預所事件(横浜の生糸売りこみ問屋と外国人貿易商との生糸価格をめぐる主導権争い)に巻きこまれて取引停止となり、大損害をこうむった。ちなみに、この年に同製糸場構内を借りうけて設置されたばかりの揚枠器械製糸所「惟精(いせい)社」の生糸も痛手を受け、解雇を余儀なくされた。翌十五年七月より、もと長野生糸改会社副社長で長野町の佐藤昌作の担当にかわり、同十六年六月に払い下げを受け、かれの所有になった。創業以来、十五年まで同製糸場は一定の名称がなかったため、海外で知名度が低かった。このときから名称を長野製糸場とし、横浜へ送る生糸にも商標を添付(てんぷ)した。製糸は精良であったが、出荷量が少なく、価格上不利であったため、十八年に二〇釜(かま)の増設をはかった。二十三年の不況をへて、二十四年六月より長野町の実業家岡本孝平の経営となり、三十一年ごろ廃業となった。

 このように、長野県製糸場の設立された明治十一年のころは、製糸の粗製濫造から偽製濫造が、すなわち生糸の束ね方の問題が表面化してきた時期であったこと、製糸場が経営的にかなり無理があったと思われることなどにより、わずか二年余りで所期の目的を達成したとして、貸し下げ(払い下げ)られたのである。