長野町商業の発展をうながす要因として、善光寺参詣(さんけい)客のほかに、いくつかあげられる。県庁、裁判所、郡役所、大林区署、尋常師範学校などがつぎつぎと設けられ、そこに奉職する官吏(かんり)と出入りの吏民はことごとく長野町の顧客となった。また、地租改正事業によって、農民の租税負担が緩和され、封建(ほうけん)的諸規制(衣食住規制、身分制など)も廃止されたうえに、養蚕業の発展にともなって、農家の消費意欲が高まった。履(はき)物、笠、桐油合羽(とうゆがっぱ)、木綿の衣服、紙入巾着(きんちゃく)はそれぞれ半靴、帽子、外套(がいとう)、絹紬(つむぎ)・ラシャ、大小鞄(かばん)となった。さらに交通の便をはかるために、大野県令が明治十五年(一八八二)から七道開鑿(かいさく)の第一番目として碓氷(うすい)工事に着手した結果、ひんぱんな馬車・牛車の往来をみることとなった。それによって、塩なども南から入るようになり、商業上の変動と活況をもたらした。
つぎに、明治十一年十一月に三上真助によって作成された「開明長野町新図」から長野町商店・サービス業の分布状況を整理すると、表38のようになる。商店・旅館数のもっとも多いのは、大門町の四〇軒であり、当時の商業の中心地であった。さらに大門町商店街を補うものとして、善光寺近隣の元善町、横町、東町、西町などがあり、大門町の南に接する後町(ごちょう)は荒物商をはじめとする一三店舗のにぎわいをみせた。また遊郭が新地に移された直後の権堂町は商人宿と料理店という特徴をもっていた。
長野町の物品販売業の主なものとしては、明治七年設立の石油販売会社をはじめとして、同十一年創業の海産物販売「北海商社」や同十八年の「長野商社」、同二十一年の鮮魚等水産物卸商「長野協盛社」などがあげられる。このうち、長野商社は長野町の豪商である市川藤吉・藤井平五郎・山口仲之助らによって大門町に建てられた物産買い継ぎ店である。
長野地方の物産を求めるものは、同社に手付け金(相場の二割)を送れば、その依頼にもとづいて物資を送り、いっぽう、他地方・県外の物産を求めて同社に頼むと、つとめて安く品物をさがして依頼者に送る。元来、長野町はもちろん松代・須坂・中野・飯山などの商人は、仕入れのために自らしばしば、上京せざるをえなかった。また、多量の仕入れをしても販売のむずかしいこの時期の不況下では、仕入れを同社に委託すれば便利であるため、各地の商店から続々と注文が入ってきた。二月の創業以来、日曜日返上で営業してきたが、社員の健康のために七月一日から日曜日を休業とした。物品扱い手数料は原価一〇円以下のものは五パーセント、一〇〇円以上のものは一・三パーセントなどと決まっていた。こうした商社の営業によって、円滑な商品流通がもたらされ、商業の活性化のみならず、ひいては地域の生産活動振興の一助にもなった。
大門町の山城屋は洋服調製、西洋貨物、洋酒(ビール)、薬販売などを営んでいた。店主の山口仲之助は、長野銀行支配人山口久米太の子で、長野活版所社長岡本孝平の兄にあたる。同店の「店則」によって、当時の大店(おおだな)の従業事情の一端を見ることができる。住みこみ下働き店員の起床は午前五時、就寝は夜一〇時である。入浴については夏の暑中は一日おき、それ以外は月六度と定めている。衣類はすべて二子縞(しま)を、袖口には木綿黒桟留縞(くろさんとめじま)を用いる。
明治二十三年七月の同店店則改正草案によれば、同二十四年一月から掛け売りを廃止することになっている。従業員は旧来の顧客に対して貸し売りを「謝断」することのできない場合には、帳簿担当人が店則をもって穏当に謝断すること(第一四条)としている。また、「商業談話会」と称して、毎月第二・第四日曜日の夜一〇時から二時間、従業員である帳簿担い人、行商人、座売り人、使用人(雑用係)が胸襟(きょうきん)を開いて、商業上の知識を交換し、商事を討論する(第四一条)ことになっている。
大門町の高坂金太郎は時計師であるが、明治二十一年四月の善光寺御開帳にあわせて、東京の西洋人からベルギー製オルゴールを買いいれ、善光寺東の城山登り道南側で木戸銭二銭をとって、トコトンヤレの歌、ヒトツトヤーの歌、老松の歌などの曲を聞かせた。大門町新小路の西洋軒では二十一年から玉突きを開業している。
善光寺界隈(かいわい)の新町・岩石町・伊勢町の三町は、維新期以後の風潮で自然廃止となっていた開市を復活させようと、明治二十二年二月に主だった関係商店主が協議をした。その結果、三月から毎月一日・十五日・二十八日に開市することになり、旗章をつくって三町ともりっぱに飾りつけをし、客寄せをした。
善光寺元善町をはじめとして善光寺境内には多くの露店(ろてん)が営業していた。その数は仁王門下に一四店、山門下東側に二四店、山門上の両側に一二店と一四店、本堂裏に三店あった。ところが明治十九年一月十五日に県令は郡役所に通達を出し、善光寺本堂を火災から守るため、境内の官有道路で営業している露店をすべて四ヵ月以内に取り払うよう指示した。それを受けて郡役所は二月中に立ち退(の)くよう露天商に通知した。長野町ほか四ヵ町村戸長が境内を取り調べたところ、一戸の建物のみが官有地にかかり、他は大勧進私有地(山門下東側)に属するが、いかに取りはからうべきかと郡長あてに上申したが、何の沙汰(さた)もなかった。露天商らはみな突然の引き払い命令に驚き、さっそく、連名でさまざまな願い出をした。仁王門前の書籍商松葉軒の西澤喜太郎ら一三店は二月十七日に官有地拝借願いを出したが聞きいれられなかった。山門前東側の露天商らは、「不景気がつづき、粥(かゆ)に露命をつないでおり、一銭の蓄えもない。これから彼岸の時節に向かい、参詣者も増えるはずで、これまでの仕入物品を売却して引き払いたい。また山門上の商人らは露店設置して十余年、数珠(じゅず)、香類、絵図面などを売り、薄利を得てきた。他へ出店しても一人として客が来るはずがなく、餓死する場合も考えられるので、四月十五日まで延期してほしい」と訴えた。けっきょく、四月十九日までに全店が立ち退くことになった。