中山道郵便馬車会社が東京・高崎間で貨客と郵便物の輸送をおこなっていた。その高崎から長野県内への輸送をつとめたいと大蔵省駅逓寮(えきていりょう)に申しいれたのが、近世いらいの中馬(ちゅうま)関係者で組織する中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社であった。明治五年(一八七二)二月に、北国街道沿いの宿駅には駅逓寮指定の郵便取扱所を設けるが、その道筋以外の地への郵便取り扱いは中牛馬会社が担当するよう申しつけられた。一般貨物運送については牛馬数、鑑札(かんさつ)などについて内容を詰めるよう指示があった。同年八月制定の中牛馬会社定款(ていかん)(第一条)によれば、貨物の付け運び事業は元発送り状のあて所までの率(牽)(ひき)通(とお)しをもって本業とした。長野中牛馬会社は長野町大門町九一番地に開設され、頭取は明治九年五月に山極慎吾から中沢与左衛門に引きつがれている。
いっぽう、同社のほかに、近世の飛脚(ひきゃく)業仲間で組織された陸運元会社(明治八年二月に内国通運会社と改称)が県内で活躍していた。さきの郵便取扱所関係の長野駅臼井承、篠ノ井駅樽田俊三らがその経営にあたっていた。内国通運会社は貨物の輸送にさいして、県内では中牛馬会社も優勢で各駅の便利な場所で営業しているため、競合関係におちいり、社則にもとづいた経営が阻害されていると、明治九年十一月に駅逓寮(内務省所管)へ訴えている。ちなみに長野の内国通運会社は大門町五七番地にあり、中牛馬会社とは目と鼻の先であった。もちろん、中牛馬会社と通運会社との貨物の扱い量は、県内でも地域によって異なっていた。中牛馬会社対通運会社の扱い高は、小諸、上田、長野ではそれぞれ二万八〇〇〇駄(だ)対一万駄、二万五〇〇〇駄対一万二〇〇〇駄、二万二五〇〇駄対(通運会社分不詳)と、中牛馬会社のほうが優勢である。また松本、飯田ではそれぞれ四〇〇〇駄対一万三〇〇〇駄、三八〇〇駄対一万三〇〇〇駄と、逆に通運会社のほうが優勢であった。
しかしこうした運送業にもいくつかの問題がはらまれていた。運送稼ぎ人から牛馬主にいたるまですべての関係者は両社のいずれかに所属し、営業することになっていた。発足当時は所属者が多く、季節にかかわらず、運送貨物の繁多なときは招集使役したが、幾年もするうちに両社に鑑札を求めるものは減少していった。自分勝手に他人の貨物を運送するものが多くなり、遅延(ちえん)、毀損(きそん)、紛失などが生じがちになった。また貨物が多い地域では運送業も盛んであるが、僻地(へきち)においては労働に見合った収益が得られないために従業者が少なく、貨物が停滞する要因になっていた。そのうえ、慣習から生じる障害もあった。内国通運会社の「信濃同盟申合規則」(明治十八年五月)によれば、従来継立(つぎたて)取り扱いについては地方の慣行にまかされ、長野県内では貨物運賃は十中八、九は受取人が負担する慣行であった。ところが、この運賃が高すぎるなどの理由で荷物の引きとりを拒否する受取人もいたので、この場合の荷の競売や荷の差出人からの運賃取り立てなどが申合規則に盛りこまれている。
中牛馬会社は明治十二年十二月に、「有信組」を併設した。荷主が、中牛馬会社へ運送を依頼した商品を抵当として、借金を願いでた場合、その貨物を検査し、原価の六割、最高五〇円までを貸与する信用機関である。周知のように、荷主にとって運転資金の確保はきわめて重要なことである。製糸会社は生糸を生産して、横浜から米国などへ輸出するが、製品の販売代金が回収されるまで長い時間を要し、営業の継続に支障をきたすので、どの製糸会社も製品の発送と同時に取引銀行で「荷為替」取組という方法によって、生糸代金を受けとる。銀行からみれば代金の立てかえ払いであり、その生糸は横浜の貿易商人から代金が回収されるまで、銀行の管理下におかれる。
横浜への生糸(為替荷物)の運送を担当していた長野中牛馬会社では、残存している明治十年十一月の帳簿によると、県為替方をつとめていた田中組(のちの田中銀行)から横浜の田中平八あての生糸を扱っているのが早い事例である。生糸や繭(まゆ)の荷物の運賃とその保険料を銀行から受けとって横浜まで運んだ中牛馬会社の収支決算は表39のようである。運賃に比べて保険料の高さが目立っている。この保険料がどのような内容のものであるか、第六十三国立銀行(松代本店分と中野支店分)との保険料の内容を見たのが、表40である。荷扱人の荷造費がふくまれていたり、儀礼的な交際費三七円(二八パーセント)が保険料を押しあげている。この第六十三国立銀行との取引では二九円七八銭の利益を出しているが、同年の須坂銀行との場合、保険料として五四円余を受けとって、必要経費のほか、くず物・ぬれ荷の弁償代として二〇円を支払い、一〇円二九銭の赤字を出している。
長野町のいくつかの商社・会社は長野中牛馬会社と約定書を取りかわし、貨物運搬の委託をしている。愛運社との契約書(明治十七年三月)によれば、高崎から長野までの各駅の逓送(ていそう)所要日限は、第四条で以下の五運間が定められている。高崎・松井田間、松井田・小諸間、小諸・上田間、上田・内川間、内川・長野間の五運間で、このうち松井田・小諸間が三日限りとなっている以外は、すべて一日限りである。