鉄道建設は日本鉄道会社による上野から群馬県前橋までの路線が明治十七年(一八八四)に開通し、さらに東北地方に向けても工事が進められていた。これに先だつ十六年十二月に政府は、群馬県から長野県をへて愛知・岐阜県へ通じる中山道鉄道建設のために、中山道鉄道公債証書条例を公布した。このような鉄道網の発達を敏感に感じとったのは、新潟県高田町(上越市)の室(むろ)孝次郎らであった。
もともと新潟県と長野県の物産は販路を東京・横浜・大阪・神戸に向けられ、また両県の需要品もそれらの地域に依存していた。しかし、陸路はけわしいところが多いうえに、冬は積雪のために貨物が止まってしまうこともしばしばあった。さらに中山道鉄道が開通すれば、従来の三分の一という安い鉄道運賃と迅速(じんそく)な運搬によって、沿線の市場が東海の海産物で占められることは明らかであった。
明治十五年二月から室ら高田町の関係者による運動が始まり、九月八日から五日間、高田町で発起者の大会議が開かれた。その席上、「信越鉄道会社創立大意」と「信越鉄道会社創立申合規約」が決まり、七人の常務委員のうち長野県関係者として飯山町の島津忠貞と上田町の森田斐雄(あやお)が選ばれた。創立大意の第一条(鉄道線路の事)によれば、直江津・上田間に二通りの路線の可能性を併記している。一つは、直江津から国道一等線中山通り信州長野をへて上州高崎にいたるもの、もう一つは直江津から長沢通り信州飯山・松代をへて上田地方に通じるものである。ただし、いずれをとるかは実地踏査のうえ、大議会に付し、便利な路線に決定すべきである、としている。
室らは、明治十五、十六年と新潟・長野・東京で株主の勧誘活動をおこない、十六年八月には長野町に支社を設けた。資本金額が九十余万円に達した翌年四月に、上田駅から直江津経由新潟港までの鉄道建設を目的とした信越鉄道会社創立許可願いを長野県・新潟県両県令あてに提出した。そのときの発起人総代八人のうち、長野県関係者は長野町の中沢与左衛門のみであったことや、長文の許可願いに繭(まゆ)・生糸の輸送に関しては一言もふれられていないことからも、この事業が新潟県関係者の主導のもとに始まったことがわかる。
明治十七年五月に工部卿(こうぶきょう)から太政(だじょう)大臣あてに信越鉄道会社設置の伺いが出されたが、工部卿は、東京からただちに北越の海湾に達する重要路線であるので断然官設とするのが至当であると進言している。そして七月にそのとおりの裁断がくだされた。
明治十八年、海上から鉄路が陸揚げされて、直江津から上田に向かって工事が始まった。建設が進むなかで、上水内郡浅野村(豊野町)までの路線は決まっていたが、それ以遠について、長野町と松代町のいずれを通過するかが地域住民の注目するところであった。長野町の有志は同年十一月十九日に東之門町寛慶寺において鉄道線路誘致について集会を開いた。そして鉄道請願委員一〇人(長野町五人、鶴賀町二人、南長野町二人、西長野町一人)を選び、陳情や上水内・更級両郡への遊説(ゆうぜい)、長野・松代・須坂・稲荷山各町の貨物の出入り個数と人口・戸数の調査などをおこなうことにした。いっぽう、須坂町および松代町においても、有志が川東へ敷設(ふせつ)するために奔走(ほんそう)していた。『松代町史』続巻によれば、松代町戸長宮島嘉織、六工社社長大里忠一郎、第六十三国立銀行頭取八田知道らが内閣鉄道局長官井上勝あてに陳情書を提出するなど、鉄道誘致運動をおこなった。
明治十九年四月十四日付け『信毎』で、路線は浅野村から長野町経由に確定したと報じているが、この決定は、土木技術上の問題によるものであった。それは、須坂町・松代町経由は、千曲川増水のさい水害をこうむる危険性があること、ところどころに新たに堤防を築く必要があるため、千曲川沿岸の農耕用水の流通を妨げること(『日本国有鉄道百年史』第二巻)などの理由で、長野・篠ノ井経由の路線が採用になったとされている。
杭(くい)打ちが始まったのは十一月に入ってからであった。このころ、名古屋付近で鉄道工事に従事していた吉田組は工事作業員約千人を率いて浅野村に到着したが、工事が始まるまで徳間村や三才村(長野市)の道普請を買ってでた。また近在の貧窮者を臨時に工事作業員として雇うことを戸長役場に申しでた。その日当は十五、六銭で、弁当をもたないものには六、七銭と弁当を支給した。
上水内郡稲田村と吉田村の境を流れる浅川は天井(てんじょう)川であったので、そこをくぐる形で線路敷設工事がおこなわれた。そのさい、川の水は樋(とい)を使って通したが、万一の洪水のときには上流の五つの用水堰(せぎ)に分水するよう、県は二十年三月に訓令を発している。
長野停車場(駅)の位置も二転三転したあと、明治二十年一月に現在の地に確定した。停車場から国道へ出る道路(第一線路)敷はおよそ六〇〇坪(一九八〇平方メートル)であったが、それによってつぶれる田畑の所有者のなかには、八〇坪もの土地を献納するものがいた。それを差しひいた費用七五〇円は関係四町で分担した。
長野停車場以北の列車の運転開始は、明治二十一年五月一日であった。駅周辺にはその発着のようすを見ようと、早朝から大勢の群衆が詰めかけた。おりしも善光寺御開帳の最中であり、それが雑踏(ざっとう)に拍車をかけた。第一列車から降りたった三〇〇人余の乗客と手荷物を見た群衆のなかには、奇妙だ、恐ろしいものだと、わめくものも多かった。
松代地方が鉄道の誘致運動に敗れた結果、明治二十一年一月号の『松代青年会雑誌』では「千曲川ノ東岸ニ鉄道ノ敷設ナキヲ惜(お)シミタルハ、単ニ商業上得可(うべ)カリシ利益ヲ得サル事ヲ惜(おしむ)ニ止マラスシテ、(中略)我ガ松代ノ開花ニ影響与(あた)ユ可(べ)キ機会ヲ失ヒタルヲ惜シムナリ(中略)信越鉄道殆(ほとん)ド成(な)ル我地方ニ停車場ナキハ、我ヲシテ商業ノ中心タルヲ得ルノ望ヲ失ワシメタ」と悔(く)やんでいる。
長野停車場から更級郡にかけての鉄道工事は鹿島組によってになわれたが、いっぽうで長野県監獄の囚人七〇人と看守一六人が篠ノ井停車場で明治二十年十一月からほぼ二ヵ月間の外役についていた。同停車場は篠ノ井村から二キロメートル余はなれた布施高田村に設置されたため、旅人や貨物の運送に関係する商人の困惑は少なくなかったので、布施高田村住民は名称変更を願いでたが、鉄道側の説諭により思いとどまった。近世以来北国街道・北国西街道の合流点として知名度の高い駅名をつけたことにより、当初思わぬ混乱を招いてしまった。長野・上田間の列車運転は二十一年八月十五日から始まった。