旧来の飛脚(ひきゃく)屋にかわる新しい郵便制度は明治四年(一八七一)十一月公布の郵便規則に始まる。これによって各地に郵便取扱所が設けられ、同八年一月から名称が郵便局に変わった。それらは一等から五等までに分けられ、さらに同十九年四月から三等級に大別されて、もと取扱所は三等郵便局となった。これらの統括は県庁内の駅逓掛(えきていがかり)がおこなっていたが、同十六年七月に長野町に長野駅逓出張局が置かれ、駅逓掛の事務の大半は同局に引きつがれた。
長野町の郵便局は明治五年七月に善光寺二等郵便屋役所が大門町で業務を開始して以来、新町(しんまち)、西町、栄町、大門町と転々としたあと、同二十四年に上後町(かみごちょう)に移った。
長野県内の郵便配送事業については明治七年二月の「郵便脚夫差立(きゃくふさしたて)の規則」に明記されている。それによれば、県内にはいくつかのルートがあり、現長野市域関係では、長野・柏尾(飯山市)間、新町(あらまち)(長野市若槻東条稲田)・飯山間、松代・篠ノ井間などがあげられる。長野・柏尾関では、長野から毎日午前六時に脚夫が小布施に向けて出発し、一往復する。小布施の取扱所で柏尾発の脚夫がもってきた郵便物と長野発のそれをお互いに受け渡しする。かつ長野発の脚夫は道中、東和田、福島(ふくじま)(須坂市)、須坂の各郵便取扱所へ往復とも立ち寄り、郵便物を受け渡した。新町・飯山間では上今井取扱所(豊田村)が両者の折り返し点であった。毎朝六時に出発していたが、途中、中継所の一つ上駒沢取扱所には三と八の日に立ち寄ることになっていた。ただし、この措置は同年八月二十八日に改正されて、上駒沢に毎日立ち寄りとなったが、徹底されなかったらしく、九月十三日付けで駅逓寮から注意の布達を受けている。また十年十月に県令楢崎寛直あてに提出された新町五等郵便局詰の七等郵便取扱役(東条村)桜井彦兵衛の上申書によれば、毎日、上今井村へ向けて片道三里二〇丁余(一四キロメートル余)の道のりを上駒沢、浅野経由で朝九時差したて、午後四時三〇分帰局とあり、一日の勤務が必ずしも規定どおりではなかったようである。
郵便事故はめずらしくなかった。明治十年三月四日、東京島屋粂吉(くめきち)差し出し水内郡赤沼村佐々木某あてに金子(きんす)五円入り書状が配達されたが、金員が入っていなく、受取人が上駒沢郵便局に申しでてきた。翌日、同局七等郵便取扱役の浅川勝右衛門はたいへん心配し、委託先の内国通運会社へ問い合わせ調べさせたいと、県駅逓掛に通知している。
いっぽうで、明治十七年に県庶務課駅逓掛から駅逓総官あてに表彰の対象として推薦されたのが、更級郡北原四等郵便局詰(三等郵便取扱役)田島伝蔵であった。かれは郵便局創設以来、集配貯金など郵便事務拡張に努力したのみならず、とくに郵便逓送速度に関しては管内随一であった。事故もなく、決められた逓送時間(一時間あたり二里、時速八キロメートル)を守り、とりわけ速達にいたっては馬車便の一等速度(一時間に二里半、時速一〇キロメートル)で走った。田島が成績のよい脚夫(きゃくふ)には報奨金を出して督励したためである。同郵便局員は三等郵便取扱役一人、取扱役代理一人、書記役一人、集配夫三人、脚夫六人であった。配夫と脚夫は駅の字をつけた半纏(はんてん)衣と笠を自費で調製し身につけていた。同郵便区内には一四ヵ所に函場(はこば)が置かれ、最寄りの資産家が切手売下所を命じられている。当時の郵便局の備品として、篠ノ井局の場合では、短銃二挺(ちょう)、弾丸一〇〇個、時計一個、秤(はかり)二基、提灯(ちょうちん)二張、その他帳簿類などが備えられていた。
電信の目的は国防、治安維持、殖産興業であるが、長野の場合、明治十一年の天皇北陸道巡幸に先だってその連絡のために架設された。長野電信分局は善光寺大本願の南東の角、元善町四六二番地に建てられた。その当時、長野警察署敷地であったが、その地を電信局が希望して振りかえという形で取得した。南の道路側にあった二軒の床店(露店)を取り払い、同年八月に建物は仮設され、同年十二月に新築落成した。当時としてはめずらしい洋風建築であった。電信線は北国往還にそって長野町南の妻科(つましな)村境から同町に入り、三輪村に達し、二〇本の電柱で架設の長さは一二〇〇メートルにわたっていた。
松代電信分局は明治十三年に完成しているが、松代町五一五番地の用地七六坪は河原綱正(代理河原均)から一三円五五銭で取得されている。長野県令は電信局長から市中繁盛の場所を買い上げるよう、指令を受けていた。電信線の測量は同年四月から始まっていた。
明治二十二年七月に長野電信分局と郵便局が合併し、九月に長野郵便電信局として県内唯一の一等局に昇格することによって、県内各局を監督した。同局の新局舎を建てるにさいしては、移転候補地として権堂の秋葉神社前が有力であったが、長野町民にとっては不便な地であったため反対運動を繰りかえした結果、妥協の地として県会議事堂へ通じる新道の北角(後町)に落ち着き、同二十四年に建物が落成した。