自由民権運動の開始と政社

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明治七年(一八七四)一月板垣退助・後藤象二郎らが民選議員設立建白書を太政(だじょう)官に提出したことから全国的に自由民権運動が始まった。この運動にいちはやく反応したのが地域ジャーナリズムであった。まず、新聞や雑誌に自由民権の政治の実現を訴える記事が載った。明治十年までは地域ジャーナリズムを中心に自由民権運動が展開し、いわゆる言論による自由民権運動の時期として位置づけることができる。当時長野県は長野県と筑摩(ちくま)県の二県に分かれており、長野県では水内郡長野村で『長野新報』が、佐久郡岩村田町で『信陽新報』が発行されていた。『長野新報』は、大門町の岩下伴五郎(蔦伴(つたとも))が経営し、長野県官吏村松秀茂が指導、旧上田藩の儒者加藤天山が編集した。七年一月の三号で『官許長野毎週新聞』と改題し、「官許」とあるように長野県との結びつきをはっきりさせた。長野県とタイアップし、その政策を県民に広める啓蒙主義の立場をとった。

 いっぽう筑摩県では、明治五年に創刊された『信飛(しんぴ)新聞』が窪田畔夫(くろお)や市川量造らを中心に活発な自由民権派の言論活動を展開していた。『長野新報』は当初、『明六(めいろく)雑誌』の掲載論文を紹介する程度で、『信飛新聞』に比べ反応が遅かったが、明治十年以降から自由民権運動の関連記事を掲載しはじめる。


写真42 明治5年創刊の『信飛新聞』と同6年創刊の『長野新報』
(県立長野図書館所蔵)

 松代町士族中沢保孝は「民会時宜ニヨリ大害アラントスルノ論」を第二四二〇号に投書した。中沢はそのなかで「民会は文明開化の基礎たる事論を待たず」としながらも、その前の年に起こった三重県の地租改正反対一揆(いっき)やその年の熊本の西南戦争を暴動や暴徒であると位置づけ、「民会が欲(ほつ)する所の禄制を発行することは、錦旗に敵せんこと、日月(じつげつ)に向かって発砲することと同じことで」、民会はときに応じて大害があると主張する。

 明治十年五月、長野県は区戸長議員で県会を開くので、凶荒予備方法、県会議員の選挙法および区会、風儀上の取り締まりと病院設置方法の議事について意見のあるものは建議書を提出するよう、達を出した。これについて『長野新聞』は社員福島龍湾の論説と柳沢徹之助と小林三郎右衛門の「県区会議員ヲ公選ニ採ルベキ建議」を載せた。

 福島は長野県権令楢崎寛直(ならさきひろなお)の議員公選の下問にたいし、愛媛県の選挙法が不分明なことを例にあげ、官選議員をもって議員を公選することを論説のなかで訴えた。また、「造化万物ヲ生スル貴賤尊卑ノ差等アル事ナシ」と男女同権論をも論じている。これに対し「県区会議員ヲ公選ニ採ルベキ建議」は、柳沢徹之助(北第十五区五小区副戸長、更級郡田野口・氷ノ田・赤田・三水・山平林・安庭)と小林三郎右衛門(同三小区戸長、中牧・田沢・牧田中・弘崎)が権令あてに出した建議で、二人はそのなかで「県会は県区人民の世論を採るところであるから議員は公選によるべきであること」を強く主張し、つぎのような方法を示した。まず区戸長・学区取締・神官・僧侶・平民を問わず徳望者を選抜することとし、財産に制限を立てて議員を選抜する委員を決める。その決め方は五〇戸に一人を基準に一般人民が投票、公選して委員を選ぶ。そして一大区に二人、一小区に三人の議員を選ぶというものであった。その後、柳沢徹之助は明治二十二年の町村制実施から信田(のぶた)村村長となり村政の運営にあたっている。

 筑摩県が長野県と合併して一県となってからの長野県では、県会や郡長の公選論が自由民権運動の中心であった。『長野新聞』は明治十一年六月以降、郡区町村編制法に強い関心を示し、十月四日・十二日の社説で「人民ヲ安ンジ」、「参政ノ権」をあたえるために郡長公選が重要だと説き、八日には「郡長選挙」を掲載した。明治十二年四月の郡区町村編制法により長野県は一六郡の行政単位となり、士族一五人・平民一人の郡長が任命された。しかし、このときは自由民権派が主張する公選ではなくて任命であった。平民一人の郡長は、自由民権派として知られる窪田畔夫であった。窪田の郡長への抜擢(ばってき)は明らかに長野県が自由民権運動の鎮静化をねらったものであった。

 現長野市域を中心とした地域での自由民権運動では、更級郡真島(ましま)村の滝沢助三郎や長野町の水品平右衛門・矢島浦太郎らの活動が注目される。滝沢助三郎は長野町の漢学塾三師舎(さんししゃ)の塾頭をつとめ、明治十三年には『信濃毎日新報』を発行し、そのなかで自由民権を主張した。また、各地を遊説(ゆうぜい)し啓蒙(けいもう)活動を展開した。明治十四年一月の『信毎』には「滝沢助三郎は去月下旬当地発足にて信州全国を週遊せらるるとのことなりしが、氏は南部八郡にて二十余ヶ所の演説及び懇親会を経て去る十日帰宅せられし、県下松本にては今春以来久しく政談とてはあらさりしがこのころ滝沢助三郎氏が同地にて演説せられし」とある。滝沢の政談演説会を機に松本ではこれ以後月三回の割りで演説会を開催するようになったと同紙は報じている。滝沢の遊説は、中信地区の自由民権運動にも影響をあたえたことがわかる。長野町岩石(がんぜき)町の綿屋平右衛門の家に生まれた水品平右衛門は、漢学者加藤天山に学び、長野県師範学校から明治法律学校(明治大学)に入り法学を専攻した。明治十三年信濃毎日新聞記者となり、鉄渓(てっけい)の名で自由民権運動にかかわった。矢島浦太郎も長野日日新聞の記者として自由民権の啓蒙につとめている。かれらはのちに北信地方の自由民権運動の中心となり、条約改正反対運動を活発に展開する。

 明治十年代になり組織的な民権結社が生まれる。その契機となったのは明治十年の西南戦争であった。それがくぎりとなって、明治政府の専制政治に対するたたかいは、士族の武力抗争から言論によって自由を目ざす政治闘争へと変わり、各地で政治結社、つまり政治活動を目的とした政社が生活・産業・教育など民衆の生活上欠かせない諸分野において結成された。明治初年の県下各地の私塾では、英学や西洋の事情が盛んに教えられていた。そこで自由民権論を学び、やがて政社の興隆に尽力する民権家になるものの役割は大きかったといわれる。

 明治十二年埴科郡松代町では菅春風、その子の真行、稜威彦(いつひこ)、原昌誠らとおよそ五十人の青年たちによって「鵬鳴社(ほうめいしゃ)」が結成された。十四年には国会開設の請願書を出したといわれる。菅稜威彦は当時の運動の状況を『長野県政党史』のなかで、「自分は明治十一年から十四年二月まで、更級郡真島村の滝沢助三郎と民権運動にたずさわっていたものである。政談演説をして臨監(りんかん)の警察官から中止を命ぜられて、何故に中止したのかその理由を質問するため長野警察署へ怒鳴(どな)り込んだことなど珍しくない。滝沢とは一緒に新聞を起こしたこともある。その頃長野大門町の蔦屋伴五郎が長野新聞を発行していたが、経営難で困っていたのを松代の小野徳之進が引き受け(『信濃日報』と改称)、自分は滝沢とともに客員として論説を書いた。滝沢と飯山出身の飯島貴らと別に新聞を創刊しようと計画を立て、自分と滝沢は上京して福地源一郎らの指導を受けて帰り、小林元辰を社長にして信濃毎日新報を発行することとなった」と語っている。

 明治十五年四月飯山町鉄砲町の蓮証寺で開かれた政談演説会に、松代の山越小三太が登壇している。当日は京都の民権家上田重徳、小県郡の龍野周一郎、地元の鈴木治三郎らも登壇している。山越は鵬鳴社に入っていたのか定かではないが、飯山町まで出かけて政談演説会に登壇していることを考えると多少なりとその影響があり、山越はこれら民権家たちとの交流から民権思想を身につけていったと考えられる。

 明治十三年二月浅間温泉桐の湯に南安曇・東筑摩両郡の戸長や町村会議員が参集し親睦会が開かれ、その場で奨匡社(しょうきょうしゃ)の社名と設立趣意書・規則、創立委員が決められ、奨匡社が誕生した。「奨匡」は木曽出身の漢学者武居用拙(たけいようせつ)が『孝経』の「ソノ美ヲ奨順シソノ悪ヲ匡救ス」からとって名づけたものである。奨匡社の運動は専制政治を匡(ただ)すことを目ざし、入社の勧誘状は二月十日付けで県下各地に発送された。また東筑摩・南安曇両郡を軸に若い小学校教師らの遊説活動によって、その組織化の動きは南信から東北信へとほぼ全県におよんだ。

 明治十三年八月の『奨匡社社員名簿』には現長野市域から長野町の三井静夫、二ッ柳村塚本吉太郎、正和(しょうわ)村(篠ノ井)春日菊佐・北島愛重・原縫殿三郎、布施五明村(篠ノ井)宇都宮美亀雄、灰原村(信更町)小林偉太郎・根津泰一が名を連ねている。また別の名簿には、長野町では小林一望・内山重一郎・坂井吉典・吉沢善吉の名前がみえる。布施五明村の宇都宮美亀雄が明治六年から同村の戸長をつとめているように、村落のなかでも豪農・地主層らが社員となった。そうしたなかにあって長野町の内山重一郎はジャーナリストで、『信毎』の記者であった。のちに『深山(みやま)自由新聞』記者となり、県下各地で遊説活動をおこなっている。急進派民権家ではなかったが、明治十五年には高遠警察署から長野県下で一年間の政談演説禁止の処分を受けている。現長野市域から奨匡社員となったものたちからは、あとに生まれる自由党に入党したものは一人もいない。