明治十三年(一八八〇)には、国会開設運動が全国各地で高揚した。『信濃毎日新報』は発行趣意書のなかで、「政府ハ改進ニ汲々(きゆうきゆう)タリト言フモ国会ノ開設ハ未タ之(これ)ヲ見ズ、国権ハ萎縮(いしゆく)シテ振(ふる)ハズ」と明治政府を批判し、第二号で「国会の設立を一日も早く願いたるは我々の本音なる」として鹿児島県下の国会期成同盟会の「国会期成同盟約条」を掲載して、当地方の国会開設運動に先鞭(せんべん)をつけた。以後『信濃毎日新報』は「地方自治論」などの論説を載せ、地方での国会開設の啓蒙(けいもう)をはかっている。
まず明治十三年十二月には、十一月の国会期成同盟会第二回大会を取りあげ、「国会請願ノ儀ハ来(きたる)明治十四年九月ヲ期シ捧呈(ほうてい)スル事ニ決シ、ソレマデハ会員ヲ各地ニ派遣遊説セシメ益々結合力ヲ培養(ばいよう)スルノ見込」という記事を載せ、同日の社説「地方自治論」という社説のなかで国会議院の設置と国政と地方自治とを分けることを論じている。十二月九日には社会人民の参政権の必要性を説き、自由の権利を堅持するには請願の権利が大事であると主張した。そして同日に出た「人民の上書は元老院にて取り扱う」という太政官布告第五三号を「請願権ヲ失ウモノナリ」と痛烈に批判した。また「長野町に大演説場を開設し、志士学士を招聘(しようへい)し知識交換の場とせよ」との「善光寺門前小僧」名の投書を載せている。十七日には「自由ナル制度ヲ戴(いただ)ク処ノ国ニ於テハ、社会ノ目安ヲ堅牢(けんろう)ナラシムル為メニ必ズソノ人民ヲシテ保有セシメザルベカラザル一物アリ」と憲法制定の必要性を早くも主張し、十五日には憲法にもとづき甲乙の二大政党の存在の必要性も主張している。このような主張は、長野県下では比較的早い時期にあらわれたものとして高く評価できる。国会開設請願の全国的な運動に対しては「全国民ノ挙(こぞつ)テ皆ナ之レガ開設ヲ熱望セザルモノナキノ形勢ヲ顕(あら)ハスニ至レリ、五月以来西ヨリ東ヨリ南ヨリ北ヨリ各地方人民ノ惣代(そうだい)タル国会願望者ハ続々出京」と当時の政治情勢を的確にとらえている。
明治十三年五月、奨匡社松沢求策と上條螘司(ありじ)が「信濃国人民二万一千五百三拾五名」の総代として「国会開設ヲ上願スルノ書」をたずさえて上京した。それから五〇日以上にわたってくりひろげられた奨匡社の請願運動は、官民両方から注目されるところとなった。全国各地の請願運動の多くが元老院に請願を提出する合法的な建白書であったのに対し、奨匡社の場合は太政官を通じて天皇に提出する請願書で、人民の請願権の確認を迫ってそのうえで受理させるという、未開拓の道をきりひらくものであった。当時の新聞界も注目し、『長野日日新聞』は「当県下奨匡社の国会請願書は元老院にて受理され、早速内閣へ廻達し内閣に於いて必ず執奏すべき旨、山口幹事より惣代人松沢上条の両氏に達され」と奨匡社の活動を報じた。奨匡社の「国会開設ヲ上願スルノ書」は、集会条例などの弾圧にも屈服することはなく迫力に富んだ書き方になっており、天皇に直接国会開設を要望する内容となっている。そのなかではこの時期の国会開設を願った全国的な民権運動の高まりを「洪河(こうが)ノ決シテ広野ニ奔流スルノ勢イ」と端的な言葉で表現している。しかし、前述したようにこれは十二月の太政官布告で請願の道が断たれることになる。