明治十三年(一八八〇)十一月、東京で開かれた第二回国会期成同盟大会は行きづまった国会開設運動をどう打開するかが焦点となり、翌年の大会には憲法見込み案を持参することを決めると同時に政党の結成が提案され、大会のあと自由党準備会が発足した。このとき松沢求策は、わが国初の全国的政党結成を提案し、大日本国会期成有志公会という全国的組織の常務委員に選ばれ、自由党の準備会にも参加し全国自由民権運動の中枢(ちゅうすう)として働いた。この大会後、前述したように『信濃毎日新報』は活発に憲法制定と政党の必要性を説く啓蒙活動を展開している。また『信濃日報』(『長野日日新聞』が改題して『信濃日報』となった)は十四年二月の第九〇二号から「社説」欄を設け自社の主張する論説を掲載した。「社説」第一号は長野町在住の常陽淡斎の「信陽兄弟ニ忠告ス」という投書であった。その主張は国会開設及び政党運動反対論者を排撃(はいげき)し、国会開設および政党運動の主張は社会進展のにない手たる「人民」の「一大義務」として「社会ノ為ニ永遠ノ事ヲ計リ、天下ノ為ニ自由ノ真理ヲ論ズル」ことを強く訴える内容となっている。
翌十四年十月第三回国会期成同盟大会が東京で開かれた。憲法見込み案を持ち寄り審議することが中心課題であったが、実際には前年の大会で提案のあった自由党の結成が焦点となった。この大会には長野県からは一人の参加者もなく、前の年とは大きな違いを見せていた。大会直後「明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、国会ヲ開ク」という国会開設勅諭が出、その十月二十九日、国会期成同盟のなかから板垣退助を総理とする自由党が結成された。また翌十五年四月には大隈重信を中心に立憲改進党が結成された。ここに、自由民権運動における急進派の自由党と漸進派の立憲改進党という二つの政党の出現をみたのである。
二つの政党が結成されると、その入党勧誘(かんゆう)が長野県にもおよんできた。明治十五年四月三十日付けの『信濃毎日新聞』(『信濃日報』は『信濃毎日新報』を吸収し、第九五〇号から『信濃毎日新聞』と改題)は「このごろ聞く処によれば東京より自由・改進の二党派のものが、上田中心に当地(長野)へ来たりて各々自己の党派へ引き入れんと周旋奔走(しゆうせんほんそう)する由(よし)なるが、政治の思想を有せらるる諸君はもっとも瞞着(まんちやく)せざるよう御注意あらまほし」と警告をしている。
長野県はまず自由党から政党加入者があらわれる。「明治十七年自由党員名簿」によると、明治十五年から十七年までに一四〇人の入党があった。長野県は全国一〇〇人以上の党員を擁した八県のうちの一つに数えられている。郡別の入党者は表41のようになっており、東北信が圧倒的に多いことがわかる。そのなかで群を抜いているのは埴科郡の五二人である。奨匡社の中心であった東筑摩郡は一人、南安曇郡は皆無で、この時期自由民権運動の地盤が中信から東北信地方に移動したようすがわかる。現長野市域からはつぎのような人たちが自由党員となっている。
松代町 植村多助
今里村 更級雄一郎 更級久衛 更級弘雄 五明静雄
真島村 高野静之助 小山尚太郎
原村 小出謹三郎
布施高田村 曽根川浪治 曽根川竹三郎
北尾張部村 山田九右衛門 横川照三郎
宇木村 寺島力多 池田喜平衛
松岡村 田中佐五兵衛
風間村 山下定左衛門
このなかでもっとも入党の早いのが、今里村の更級雄一郎の明治十六年三月である。四月六日に入党したものは植村多助・山田九右衛門・横川照三郎・寺島力多・池田喜平衛・田中佐五兵衛・山下定左衛門の七人で、このとき現長野市域からはもっとも多く入党した。上水内郡の六人はすべてこのときの入党である。八月に入党したのは五明静雄の一人であった。つづいて入党したのが真島村の二人で九月となっている。十月に入党したのが小出謹三郎・曽根川浪治・曽根川竹三郎である。更級久衛と更級弘雄は入党した年月は不明であるが、親子の入党であった。入党した年月をみると、同じときに一度に入党した上水内郡のようなタイプと随時入党していく更級郡のタイプとに分けることができる。この違いは入党の勧誘の広がりを意味しているのではないかと考えられる。埴科郡で入党のいちばん多いのは十七年の五月で、このときは入党村数一一ヵ村のうち五ヵ村で入党があった。上水内郡の場合は北尾張部(きたおわりべ)村・宇木(うき)村・松岡村・風間村とほぼ同時期に広がりをみせた。十六年四月に同時に入党となっている。更級郡の場合は今里(いまさと)村から真島村、そして原村・布施(ふせ)高田村へと広がっていった。今里村は十六年三月、真島村は六月、原村と布施高田村は十月の入党となっている。他の郡町村によっては集団で入党した村も少なくない。その典型的な例は埴科郡雨宮(あめのみや)村(更埴市)と粟佐(あわさ)村(同)である。この二ヵ村は十七年の五月、雨宮村で一一人、粟佐村で一一人入党している。現長野市域には両村にみられるような大量入党はみられないが、真島村・布施高田村・北尾張部村・宇木村ではそれぞれ二人ずつ同時期に入党している。翌十八年四月には岩野村・松代町などに五人ほどの入党があった。これらの町村では地域的にみると片寄りがありながらも党員の広がりをみせたといえる。その入党の動機は何であったのか明らかでないが、十六年五月に起きた「群馬事件」直後であることから、このような農民闘争がなんらかの影響をあたえていたと思われる。中央の自由党は十七年には分裂の様相を呈し、九月に起きた茨城県の加波山(かばさん)事件を契機に十月には解散してしまった。現長野市域で自由党に入党の動きをみた一年後のことであった。十一月「秩父(ちちぶ)困民党」の蜂起(ほうき)があり、やがて南佐久地方にも進入してきたが鎮圧(ちんあつ)されるという「秩父事件」が起き、また十二月には「飯田事件」が発生するなど、この時期の自由民権運動は激化事件をともなうものとなった。
明治十七年自由党幹部の内藤魯一(ろいち)が群馬県高崎から佐久地方に入信し、上諏訪・飯田・飯島・塩尻・松本をへて、九月長野町に入った。その目的は自由党に入党したものからの入党金集めにあった。かれの書いた日誌には「九月七日午前 入金拾円 更級弘雄」、「九月十一日夜 小懇親会嬉野(うれしの)ニテ」とあり、七日から十一日夜まで長野に滞在した。十一日夜後町嬉野亭で開いた宴会には更級弘雄・水品平右衛門、飯山町の横田国蔵・鈴木治三郎・曽田愛三郎が参加し交遊を深めている。日記のなかで「長野町表権堂栄屋ゆき方自由党賛成周旋人」と紹介されている水品平右衛門は、明治二十五年二月二十八日の『信毎』に「自由党を脱したる理由」を掲載した。このとき水品は同新聞の主筆となっていた。水品はこの時期の自由党を「現今の自由党、之れ実に僕の主義とする処を主義とし、又党員は僕と意見感情を同一にせるもの」と評価している。しかし、新聞は自由主義の独立新聞であり、新聞の執筆に至公至正の立場であたるため自由党を離れたのであった。
いっぽう、立憲改進党への入党者はこの時期一一二人を数えている。入党者は自由党と同じく東北信地方が中心であった。郡別にみると小県(ちいさがた)郡が二二人と圧倒的に多く、つづいて上高井郡が七人、埴科郡六人、更級郡四人、下高井郡三人、上水内郡二人となっている。現長野市域は自由党の勢力がわずかではあるが強いといえる。
明治十五年三月結党した立憲帝政党を支持した『信毎』の主筆青木匡(ただす)は、立憲帝政党を明治政府の御用党と称し、「方今政党ノ四方ニ競立シテ同異互相ニ争ヒソノ極ヤ過激粗暴ノ動作ヲ為スモノアルニ至ル、彼ノ自由改進党ノ党派特ニ之(これ)ヲ為スノミニアラズ、ソノ他党派ノ何タルニ抱(かか)ハラズ或ヒハ事ノ比ニ出ヅルモノナキヲ保ス可ラズ、夫レ我党ノ主義ハ素(もと)ヨリ沈毅重実(ちんきじゆうじつ)ナリ、(中略)世上ニ公知セラレタル所ノ所為(しよい)ハ蛮野卑屈(ばんやひくつ)ノ事体ト謂(い)ウベシ」(明治十六年四月二十一日)と自由党と立憲改進党を攻撃している。また立憲帝政党の解散後は「自由改進ノ両党ニ望ム」と題した社説を掲載し、そのなかで福島・新潟両県の暴動を取りあげ、「自由改進ノ両党モ実力ナキノ政党ヲ組織シテ社会ニ益ヲ為スコト能ハザルヲ知ルノミナラス、大イニ政論ヲ激進シ人心ヲ攪乱(かくらん)スルノ大害アランコトヲモ感悟(かんご)シタルナラン、自由改進ノ両党モ亦(また)帝政党ガ国家ニ益ナカリシヲ悟リタル以上ハ、ソノ自己ノ国家ニ益ナキヲ悟ルモ将(ま)サニ近キニアラントス」と両党に警告を発している。長野町の改進党員が自由党の弁士奥宮健之を招聘(しょうへい)して開いた長野町大門町藤屋の政談懇親会に、「改進党員の小野梓(あずさ)・吉田喜六二の御機嫌伺い」に出た改進党員が多数参加していることを、「改進党ト名乗ル人々ニモ撲滅(ぼくめつ)セントスル党員ヲ恐レモセズ招待シ、一坐ノ中ニテ優々ト酒ヲ飲マントスルソノ度胸ハ頗(すこぶ)ル勇ク、酒ヲ御馳走セントスルソノ心ハヤガテ広シト言ウベシ」と、その行動は党派を離れての付き合いであると痛切な批判をしている。
この時期、長野町の信濃日報社は、のちに北信自由党の創始者となる島津忠貞が社長となり、『信濃日報』を創刊した。奨匡社員の川口万次郎編集長、東京嚶明(おうめい)社員の青木匡が主幹となり創刊当時から民権家たちの政談演説会の案内や内容を積極的に取りあげた。また自らも政談演説会を開催するなど当地域にあたえた影響は大きかった。明治十四年二月十一日、長野町西方寺で開いた政談演説会は、かつてない盛会であった。青木匡は「国憲ヲ制定スルノ順序如何」と題して憲法問題を説いた。青木は憲法を、政府の独裁をおさえて、人民の財産・身体の自由を妨害するのを防ぐものとし、憲法制定のしかたとして民定憲法と欽定(きんてい)憲法の二つをあげ、民定憲法の重要性を訴えている。政府が国会開設前に国民の代表を招集して特別会議を開き、そこで憲法の起草と審議をおこない、その決定を政府が裁可し、憲法にしたがって純然たる国会を開設せよと、憲法制定と国会開設の具体的順序を提案した。憲法を制定する権利は全国の人民がにぎっているというのが青木の考えの根拠であった。また川口も「地方官ノ公選スベキコト」を演説した。当日の『信濃日報』は「聴衆は始終粛然たるの間拍手伝音の貢然たるをあらわし、その全く散会となりしは十一時頃にてありき、実に演舌(えんぜつ)会にかくの如き聴衆のありしことは当地未曾有(みぞう)のことなりしとぞ、当地人民の将来またまた奮発するの徴効見るべきなり」と報じている。その二日後、上水内郡七二会(なにあい)村の文章学校では山本運之丞と太田源左衛門が会主となり政談演説会が開かれた。その会にも青木は「人類一生ノ目的」、川口は「教育要論」、中村兵左衛門は「父兄ノ義務」を演説した。山村にもかかわらず新思想を求めて集まった聴衆は二百五十余人に達したという。
北信地方でも各地で活発に政談演説会が開催されるようになった。その状況を川口は、「松本ノ如キハ政談最モ盛ンニ演舌大イニ行ハレ、(中略)北部地方ヲ観察スルトキハ演説会ナルモノハ地ヲ払(はらつ)テミルコトナク、希(まれ)ニ長野ト飯山トニ催(もよお)セシコトアリトイエドモ是又一、二回ニシテ跡ヲ絶チ、三日坊主ナルモノニ異ナラズ、然ルニ客年ノ冬季ヨリ北部地方演舌漸々(ようよう)行ハレ彼須坂ノ如キ小布施ノ如キ期ヲ定メテ之レガ会ヲ開キ、ソノ他臨時ニ開会スルモノ比々村落ニ見ルニ至ル、長野ノ如キモ目下有志者相図(はかつ)テ将(まさ)ニ定期演舌会ヲ開カントス」と、この時期松本方面から北信地域に政談演説会が移ってきたようすを論じている。これはまさに、この時期の自由民権運動の流れが中信地方から北信地方へと移行した状況を端的にとらえているといえる。その二、三の例をあげるとつぎのようになる。
〈権堂鶴賀座政談演説会〉十四年二月九日
林善策「自由ノ原(みなもと)ハ何ニ在ルカ」、小島相陽「結果を得るの原因」、柄沢寛「人情に抱(拘)泥すべからず」、浅野信一郎「結婚論」、滝沢助三郎「過激論」、矢島浦太郎「国権を拡張すべし」
〈権堂鶴賀座政談演説会〉十四年十二月十七日
滝沢助三郎「法律論」、内山重一郎「国会開設前の施政並に政府従来の云為(うんい)」、柄沢寛「与論果して是なり」、浅野信一郎「蟄虫(ちつちゆう)化して羽翼を生す」、林善策「社会の事々物々止む得ざるに起こるか」、徳武李吉「風説を深信するの弊」、永井孝次「決る快楽は悲しみあり」、水品茂一郎「時勢論」
三輪村では明治十三年先進社演説会が組織された。小林源右衛門を社頭に社員二六人の組織であった。先進社の会則は次の四条からなる。
第一条 会期ハ一ヶ月ニ一回ト定メ、毎月一日午後六時ヨリ同十時迄ヲ定刻トス、
第二条 会費ハ一回ニ付キ金一円ト定メ、臨時ハソノ機ニ応ジテ取計ラウ事アルベシ、
第三条 会費ハ社会一人ニ付キ金五銭ト定メ毎会之ヲ徴集スルモノトス、
第四条 社員ノ中遊惰ニ流レ奢麗(しやれい)ニ浸リ或ハ制禁ニ犯触之者又ハ世情忌嫌(きけん)ノ事項ニ関係スル者アルトキハ、之ヲ社会ニ議リ事項ニ依リ脱員スルコト有ベシ、
会則からは毎月一回一日に政談演説会を開いていることがわかる。また会則に違反したり遊惰に流れ奢麗に浸るもの、制禁を犯すものは脱会となるなどきびしい会則であった。
明治十六年(一八八三)八月十日、長野町常盤井座(ときわいざ)で開かれた政談演説会では、代言人小木曽(おぎそ)庄吉(松本出身、元奨匡社社員)が「名実の弁」、水品平右衛門「共和政治の利害を明かにす」、矢島浦太郎「人身攻撃は政事家の採らざる所なり」などの演説があった。小木曽庄吉や矢島浦太郎はのちに秩父事件の弁護にあたる。この時期の長野町では代言人・ジャーナリストが中心の演説会で、自由党とか改進党といった別はあまりみられなかった。