明治政府や長野県による改正集会条例などによる弾圧にもかかわらず、長野県内にはさまざまな政党・政社が生まれている。明治十六年(一八八三)十一月巡察使元老員議員渡辺清の『長野県巡察報告書』には、北信地方に信陽自由党と益友社の二つの政党・政社があり、いずれも下水内郡内で、信陽自由党は飯山町(飯山市)の鈴木治三郎ら一二人の組織、益友社は寿(ことぶき)村の春日寿平ら三六人の社員で、どちらも「勢ヒ甚タ微ナリ」とか「別ニ記スベキニ異常ナシ」と報告されている。このように北信地方の場合はこの時期下水内郡のみに政党・政社の存在をみているが、立憲帝政党の立場をとる『信毎』は十六年一月七日の新聞で飯山地方の近況を報ずるなかで、この地方に結成をみた北信自由党を「鈴木某なる者、自由党の主唱者となりて遊説すれども憐れむべし、学なく才なく財産なく一つの素寒貧(すかんぴん)ゆえ更に賛成するものなく、只加入せしは目下寿村の二升五升担(かつ)ぎの両三名もあるやのよしなり」と痛烈に誹謗(ひぼう)している。「一つの素寒貧、鈴木某」は鈴木治三郎をいい、「寿村の二升五升担ぎ」は行商兼業を業とする農民層を中心とした自由党員を指している。しかし、北信自由党は信陽自由党に発展し、十六年二月には結党大会を開き、十八条の盟約を定めている。現長野市域からの信陽自由党員は定かでないが、かれらは他地域とのつながりを強め、信陽自由党は六月には東北信九郡を組織する信陽自由懇親会となっている。渡辺清の『長野県巡察報告書』には「勢ヒ甚(はなは)タ微(かすか)ナリ」とあるが、この懇親会には当時の長野県下の自由党員のそうそうたるメンバーが入っていた。小県郡上田海野町寿楼で開かれた信陽自由懇親会に出席した更級郡今里村の自由党員更級弘雄のメモには石塚重平・早川権弥・龍野周一郎らの名前とともに今里村の更級雄一郎が登場している。これにより現長野市域からもこの懇親会に参加したようすがうかがえる。この会では信陽北部九郡を組合とし、同主義のものが相会し、親睦を厚くすること、毎年三月と十月の二回定期会をもつこと、東京大会議へ代議士を派遣すること、組合経費の予算をたてること、委員をたてることなどの規約が決められた。十七年段階で信陽自由党はわが国第二位の組織であるといわれるまでに発展している。
自由民権運動は明治十七年段階でいくつかの激化事件を起こしている。その代表的な事件が秩父事件であり、飯田事件であった。『信毎』はこれらの事件についての状況を連日報道した。十一月十一日「暴徒本県ニ乱入ス」という社説を載せ、秩父事件を「尋常ノ百姓一揆(いつき)トハ少シク異ナル処アルニ似タリ、大イニ治安ヲ妨害シ大イニ良民ヲ苦シムルカ如キ事アランニハ、以(もつて)ノ外ノ事ト云(い)ハザルベカラス」とみなしている。またその鎮圧を「暴民退治」として「長野県内には最早(もはや)暴民は一人もなし、鎮撫(ちんぶ)の功の速なるは本県人民の幸い」と報じてもいる。その原因を不景気、徴兵令改正、賭博(とばく)犯処分規則廃止にあると「暴徒ノ挙動」のなかで論じている。飯田事件については「刑法実施以来ノ国事犯事件ヲ評ス」や「国事犯罪人ノ宣告」、「飯田国事犯事件」などの社説を載せた。飯田事件の弁護人の一人に矢島浦太郎がいた。
この段階で激化事件のために中央の自由党は解党し、改進党も分裂してしまうという事態となり、長野県下の自由民権運動も十七年以後鎮静化する。それが再び盛りあがるのは二十年代になってからのことである。