大同団結運動と町村民

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明治二十年(一八八七)十月、自由民権運動が再燃し、大同団結運動として盛りあがりをみせる。「大同団結」とはいくつかの党派や団体が共通の目的のために、小さな意見の違いにこだわらずに一つにまとまることを意味している。この時期の共通の目的とは、井上馨(かおる)外務大臣の条約改正に反対することであった。国会開設を間近にして民意と勢力の結集が進んだ。同月、東信有志懇親会の早川権弥らの条約改正反対建白書につづき、七二会(なにあい)村の小池平一郎は飯山町の鈴木治三郎とともに反対建白書を提出している。建白の内容は定かでないが、このことは小池と鈴木の結びつきを証明するものとして注目できる。『信毎』も建白書提出に注目し、「兼て当国より有志総代として上京したる早川権弥・長坂喜太郎・木内信・山崎亀重郎の四氏及び小池平一郎・鈴木治三郎の二氏は、何(いず)れも去月二十八日条約改正に関する建白書を元老院に捧呈したり」と報じている。建白書提出の動きは埴科郡の有志のなかにもあり、同じ年の十月建白書を出している。

 鈴木治三郎とともに建白書を出した小池平一郎は、七二会村坪根の小池慶作の長男として文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)に生まれている。『長野新聞』第二三四号の雑報には、「明治七年の秋頃下等小学八級を卒業せし時学区取締の巡回先へ願ひ出長野学校に入校したき由(よし)を望みしかば、早速願ひの通り入校を許され二三ヶ月を経て七級を卒業し、その後故あって更級郡氷鉋(ひがの)学校へ入学なし正期時間の外夜の十二時に至るまで訓導に従い数理の二学を学び、実に驚くほどの勉強をなし同八年十二月までに六級より一級までを卒業し、同九年一月十一日同校において下等小学全部を卒業せし、(中略)本年四月志願ありて東京に至り、五月二十八日陸軍士官学校において志願の者三百四拾名の内各自試験を受けしに六十五名及第せし内に入りしという」と、その壮志をたてて勉学する姿が紹介されている。士官学校を中途で退学し、漢学やフランス語を修めたのち政治を志し、自由党に入党した。東京浅草で開いた信濃有志懇談会では条約改正反対の大演説をおこない、十一月の長野町城山館(じょうざんかん)の信濃大懇談会では元老院に提出した建白書を印刷・配布したため出版条例違反で禁固四ヵ月、罰金四〇円の処分を受けている。そののち北信民会の代表となり、東京の大同団結委員会に出席したり、信濃共和会の発会にもかかわっている。文字どおり、この時期の大同団結運動の中心人物の一人であった。


写真43 左は蔵春閣、右が城山館
(『思い出のアルバム長野』より)

 条約改正反対運動が県下各地に勃興(ぼっこう)してくると、これらの運動を一つにまとめようとする動きが長野町を中心に醸成(じょうせい)されてきた。明治二十年十月二十一日後町嬉野亭では三十余人の参加のもと有志懇親会が開かれた。この会では信濃全国有志の懇親会の一ヵ月後の開催を決め、その準備委員に赤羽万次郎・小池平一郎・水品平右衛門・鈴木治三郎・小木曽庄吉・立川雲平・大塚伊三郎が選出された。小池はこの大懇親会で建白書を配布するため、屋代町の峰村活版所で三〇〇部を印刷し会に備えた。いっぽう長野県からの上京者の数も日ごとに多くなり、上京者は全国の有志者との結合をはかりながら、在京人同士の結束をはかっている。また十一月開催の信濃全国有志大懇親会開催の動きにも敏感に反応をしている。十月三十日、浅草井生村楼で在京人懇親会を開催した。この会に会するもの六十余人で、当地方から滝沢助三郎と小池平一郎らが出席した。滝沢と小池はともにこの会の会主の一人であった。滝沢が開会の趣旨を述べ、小池は席上演説をした。そして外交事件に関して在京信濃人の団結をはかること、そのための委員五人を選ぶこと、十一月二十日の長野での信濃大懇親会に三人以上の委員を派遣することの三条を議決した。委員五人は滝沢助三郎・武藤直中・小林営智・小山久之助・早川権弥が選ばれている。

 信濃全国大懇親会は十一月二十日、長野町の城山館で開会した。会場入り口にはむしろ三枚をつらねた大額に「Give me liberty or give me death」(自由を、しからずんば死を!)と大書して飾り、その横には「信濃大懇親会」と書いた旗をひるがえし、館内会場正面には「披胸襟(きようきんをひらき)談時事捨大同取小異」を掲げた。『信毎』は「信濃長野の城山館に於いて信濃大懇親会の開設あり、抑(そもそも)本会の委員は小木曽庄吉、立川雲平、小池平一郎、水品平右衛門、鈴木治三郎、大塚伊三郎、赤羽万次郎の七氏にして、これより先檄(げき)を四方に廻すや響応するもの三百余名の多きに至り、当日午前より陸続会場へ雲衆し来たりて、午後零時三十分までには予約の人のことごとく参着したるのみならず、俗にいふ飛入の連中も亦許多(きよた)これありたるが、余りの雑踏なりければ予約外の人は大抵これを謝絶したる」とその盛況ぶりを報じている。じっさい三〇四人の参会者があり、県会議員二二人もそのなかにふくまれていた。小木曽庄吉の開会の辞のあと、長野県会議長島津忠貞の司会で会は進み、本会を永続することのほか七項目を可決した。会には中江兆民も演壇に立ち、かつての自由党・改進党といった対立を捨て、大同団結こそ当面の最大の課題であると呼びかけた。立川雲平からは県下の総力を結集して政府の条約改正中止建白(けんぱく)の実現をはかるよう提案があり賛成を得た。そして翌日、鶴賀町の衛生軒で同志者の集会をもつことも決められた。この大懇親会に参加したものたちは、そのあとの政談演説会で建白同意者の増加につとめている。政府は出版条例違反のかどで条約改正反対運動をおさえる挙に出た。小池平一郎は当日の大懇親会で参会者に配布した建白書が「秘密に出版したる嫌疑(けんぎ)」で、鈴木治三郎は「心のしおり」を販売した嫌疑(けんぎ)で、十一月三十日長野警察署に拘束、検事局で取り調べを受けた。

 信濃全国大懇親会で決定をみた建白書に結集の件は、翌二十一年三月二十四日、「東山道信濃国人民七百二拾六人ノ私共ハ山崎浪治外二十六名ヲ以テ総代ト相定メ」という「建白書」で実現をみた。建白書は「外交之事」、「地租之事」、「集会言論之事」の三条からなり、条約改正案の廃止、地租の軽減、集会言論の自由の保障と保安条例の全廃を主張した。建白書の捧呈委員には上水内郡三輪村山崎浪治、更級郡滝沢助三郎、上高井郡沼目村勝山直久がなり、建白書提出については二七人が代表して委任するという形をとった。二七人を郡別にみると上水内七、埴科五、更級・北佐久各四、上高井三、小県・下水内各二人となっている。現長野市域からの関係者がもっとも多く、三輪村の山崎浪治、七二会村の小池平一郎、長野町の水品平右衛門・小木曽庄吉・赤羽万次郎・黒沢六弥・大塚鳳、真島村の滝沢助三郎、今里村の更級弘雄・五明静雄、松代町の吉原一安・中村好造、東条村の中沢民之助の一三人であった。なお、署名者七二六人の分布は表42のとおりである。郡別にみると上水内郡が二八一人と圧倒的に多く、建白書の中心は上水内郡にあったようすがうかがえる。

 上水内郡のなかでも署名の多いのは、高田村(四六人)・大豆島村(四三人)・三輪村(三八人)・平林村(三〇人)・柳原村(二九人)・長野町(二九人)である。それにつづくのは古野村(一九人)、日影村(一五人)となっている。これらは村連合で署名したことがわかる。平林村の三〇人のなかには小林きさという女性の名前もみえる。署名した人のなかに女性が入っているのは注目すべきことで、現存している建白書のなかで女性の名前がみえるのは、このときがはじめてであった。上水内郡は署名村数も二〇ヵ町村と北信地方ではもっとも多く、北佐久郡につづいている。このことからも上水内郡が建白書の中心にあったことがうかがえる。


表42 条約改正反対運動建白書郡別町村別署名数(明治21年3月24日)

 埴科郡は六ヵ町村が署名している。松代町一〇人のうち五人は士族である。西条村は一二人が署名しているが、全員が士族で、郡のなかでは特徴的な村となっている。清野村も三人が士族である。埴科郡のなかでは松代地方が建白書運動の中心にあったことがわかる。更級郡は二八人が署名し、村数は七ヵ村である。御幣川(おんべがわ)村・原村・氷(ひ)ノ田村はそれぞれ一人であるが、一般民衆(平民)となっている。郡のなかでもっとも多いのは東福寺村の一〇人であった。これら署名した人たちは一般民衆であり、埴科郡が比較的士族が多いのに比べると署名の中心は一般民衆にあったことがわかる。

 信濃大懇親会は五月に松本町の青竜寺で第二回を、十月に上田町の月窓寺で第三回を開催した。信州国会議員候補の私選が論議された第三回には現長野市域からつぎのものが参加している。

松代町 鎌原仲次郎 川口千嘉太郎 山田清

真島村 滝沢助三郎

二ッ柳村 西沢喜代作

田ノ口村 小林営智

篠ノ井駅 中村好造

長野町 矢島浦太郎 黒沢六弥 鈴木治三郎 中村菊雄 鈴木健蔵 牧野知五郎 小林熊太郎 志村友吉 五明浜五郎 宮下一清 島崎広助 樋口彦四郎 高橋仲太郎 菅野周司

三輪村 中島清作 滝沢周衛 北島富吉

古野村 山岸直人

吉田村 小林敬太郎

 この会で第四回を明治二十二年四月に再び長野で開くことが決められたが、第四回はなかなか開かれなかった。二十二年段階になると、大隈重信が前年二月に入閣し外務大臣に就任して、井上馨のあとの条約改正問題に取り組んでいることが、中央の大同団結運動を東京倶楽部・関東会と東北十五州委員会に分裂させるという事態を引きおこした。こうした分裂する動きが第四回の開催に大きく影響をおよぼし開催が実現できなかったとみられる。

 長野県下には明治二十一年十一月大同団結の組織信濃政社が設立されている。現長野市域から鎌原仲次郎、滝沢助三郎、宮下一清、矢島浦太郎が創立委員となっている。信濃政社の共通目標は、責任内閣の制を建て議院政治を施(し)くこと、対等の条約改正を実行すること、租税を軽減すること、言論・集会・出版の自由を拡張すること、社交上政治上、階級の弊害を除去することの五つであった。この信濃政社には埴科郡の埴科倶楽部(くらぶ)、更級郡の更級倶楽部、北信五郡にまたがる北信民会をはじめとして県下各地の政社が加わっている。この会は大同派旧自由党系の色彩が強かった。

 長野町の秋葉神社前(鶴賀町)を会場とする北信民会は、明治二十一年十月に結成をみている。北信民会はこれらの政社のなかでももっとも早く組織された組織で、上水内郡をはじめ、上高井郡、更級郡、下水内郡にまたがっていた。上水内郡では矢島浦太郎・山崎浪治・吉村常太郎らが、更級郡では滝沢助三郎が中心となった。埴科倶楽部は二十二年二月の結成で、松代町の鎌原仲次郎・吉原一安らが結成に尽力した。また、更級倶楽部の二十二年の「更級倶楽部規則」をみると、今里村の五明浜五郎・宮下一清、真島村の滝沢助三郎が幹事に、東福寺村吉沢繁松、篠ノ井村宮崎伊平、石川村田中信司、今里村五明静雄・更級弘雄、御厨(みくりや)村吉川市平衛、八幡村西沢貞治、二ッ柳村西沢喜代作が常議員となっている。

 いっぽう、ときを同じくして信濃義会が長野町に生まれている。この会は「政社的の結合にあらずして会員互いに交際を厚くし公益を謀(はか)る」ことを目的に結成された会で、島津忠貞・小林営智らが中心となっている。

 信濃政社は、県下の大同団結運動のすべてをつつみこもうと明治二十二年四月信濃倶楽部を結成した。中央の運動が分裂の様相を呈しても長野県の大同団結はこの時点では信濃倶楽部に結集されていたのである。七月二十二日信濃全国大懇親会を長野城山館で開き、大隈条約改正案に対しての反対の第一声をあげた。これが「長野町矢島浦太郎外五名条約改正中止建白書」である。建白書は外国人の裁判官任用を「国家ノ体面ヲ辱(はずか)シムル」こと、「日本帝国ノ憲法ヲ蔑視(べつし)スルモノ」であると指摘する。そして「一国茲(ここ)ニソノ国ノ為(た)メニ法ヲ立テ法ヲ制ス。一国ノ主権以テ之ヲ為ス所ナリ。天下独立ノ邦ニシテ、孰(いず)レカソノ国ノ法ヲ立テソノ国ノ法ヲ制スル事ヲ故(いたず)ラニ外国政府ニ約シ、已(すで)ニ之ヲ約シテ猶且(なおかつ)之ヲ実行スルノ前ニ外国政府ニ通知スルトノ事ヲ約スルモノアランヤ」と外交の原理を説き、大隈外交を批判した。また、憲法は発布されたが国会は開かず、郡制府県制が制定されない日本の現状から、外国人に土地の所有権を認めることはできないと主張している。建白書提出の上京委員には矢島浦太郎、滝沢助三郎ら五人がなった。


写真44 信濃倶楽部の仮規則や城山館懇親会、各地の政談会のようすを報ずる明治22年の『信濃毎日新聞』

 信濃倶楽部は八月十日の信濃倶楽部臨時会で政社団体とすることを決定したため、信濃倶楽部から非政社派が脱会し、信濃協和会を組織した。発会式を八月二十三日長野城山館で開いている。『信毎』は「会員島津貞忠、宮下一清氏の如きは蕨然(けつぜん)同部を脱するに至りて、今や同氏は北信民会の重立ちたる人々と結び、非政社派の大機関として信濃倶楽部圧倒の勢力を有(も)ち一大結合を作らんとす」と設立を報道している。現長野市域からは水品平右衛門が理事の一人に、島津貞忠・矢島浦太郎・宮下一清・五明浜五郎らが常議員になっている。今まで大同を保ちつづけた長野県の大同団結運動も、この時点で分裂をみせている。『信毎』は「信濃倶楽部即ち政社派は当地に於いては人数も少なく随って勢力も乏しく、信濃協和会は創立にも拘(かか)はらす人数も多く勢力に於いては益々拡張し得るの現況なれは、是より当地に於いて両立し互いに碁角(ごかく)の勢ひを張らんとするに於いては、信濃倶楽部の人々は一層非常の勇働をなさざるが以上は、何時も信濃協和会の下位に列せさるを得さるに至るべし」とその状況を論じている。

 明治二十二年段階で長野県からは二二の建白書が出されている。そのうち現長野市域からは以下の建白書が出されており、大隈重信の条約改正反対運動の中心にあったことがわかる。

1 長野町矢島浦太郎外五名条約改正中止建白書

2 埴科郡六四二名惣代安藤安次郎外二名条約改正中止建白書

3 更級郡七五四名惣代更級弘雄外三名条約改正中止建白書

4 上水内郡有志総代山崎浪治外五名条約改正中止建白書

5 長野町荻原政太条約改正中止建白書

6 上水内郡大豆島村惣代斉藤久作条約改正中止建白書

7 上高井郡川田村惣代北嶋亀之助外二名条約改正中止建白書

8 上水内郡芹田村惣代金子嬉六外八名条約改正中止建白書

9 上高井郡須坂町外五ヶ村一五七名惣代板倉信哉外一名条約改正中止建白書

10 長野町小木曽庄吉条約改正断行建白書