明治十年代の町村民の病気の状況は表43のようであるが、患者の数からみると消化器病がもっとも多く、全体の三分の一近くある。次いで神経および五官病が多く、さらに呼吸器病となっている。つぎに多いのが発育および栄養的病で、一割を超えているのは、衛生栄養面の低い時代を反映しているものであろう。また、表44により上水内郡の法定伝染病の病死者の数からみると、例年全般には腸チフスが多く、脚気(かっけ)がそれに次いでいる。コレラは、まん延した明治十九年(一八八六)には、一〇〇〇人を超す多数となっている。いっぽう公娼(こうしょう)制度はできたが、明治十年代には表45のように、梅毒(ばいどく)患者は急増した。
隔絶の感がある山国信州にも、各種の伝染病が多く流行した。その主なものはコレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリアなどである。江戸時代に大発生をみた天然痘は明治二十年代になって流行をみせたが、幕末における種痘(しゅとう)の普及で急速に発生を減らした。ちなみに長野県にはじめて種痘をもたらしたのは佐久間象山で、嘉永(かえい)二年(一八四九)であった。長野県は、直接外国との交易の道である海をもたなかったので、発生の割合は比較的少ない。
伝染病のなかでもっとも猛威をふるったものはコレラであった。ことに衛生思想の低かったこの時期には時折大流行した。伝染率が高くそのうえ死亡率が高いことでも人々を恐怖におとしいれた。明治十二、十三年の大流行では、臨時県会議場をコレラのまん延した長野町から上田に移し、二万三一六六円の予防費を可決した。そして当時唯一の消毒薬とされた石炭酸での消毒や罹患(りかん)死者の火葬が奨励された。
これより後年毎年発生をみたが、とくに明治十九年には上水内郡下で一〇三八人がかかり、六一五人もの人びとが死亡した。この年の流行は、一因に直江津線の工事にきた県外からの作業員によるものであるといわれたが、作業員の死亡も多く悲惨(ひさん)をきわめた。この流行で県は、郡役所、戸長役場に対してコレラ予防消毒の心得を出して予防の徹底を期した。
しかし、長野町周辺は清潔な飲料水に恵まれず、湯福川・鐘鋳(かない)川・八幡(はちまん)川の河川水や井戸水に頼っていたので、恒常的に伝染病に悩まされていた。そのうえ県庁所在地として戸数や人口が増加して、飲用水の不足が深刻化してきた。そこで明治十三年長野町通常町会に、戸長(こちょう)露木彦右衛門が飲用水施設の可否を諮問(しもん)したが、この案は大正初年まで実現しなかった。