長野町・南長野町・鶴賀町の三町では、明治二十一年(一八八八)から日常生活のよりどころとなる正午の午砲(ごほう)(住民はドンと呼んでいた)で地域住民に時刻を知らせてきた。
長野町の明治二十一年「上水内郡長野町共有金支払予算成議案」(中沢総二文書)によれば、長野町は南長野町・鶴賀町の両町と午砲の連合設置をとりきめ、午砲費分担金九〇円七銭を予算化している。分担額は各町の戸数に応じて決められ、長野町は戸数四四六七戸分を負担している。なお「附言」によると、時刻の通報は測候所(近接)に依頼することができ、用砲は県から無料貸与の約束があるので、予算案のなかから時計大砲の買入費と司砲人給を除くとしている。
明治二十二年一月五日、城山に備えつけの午砲が、正午の発砲のさい砲体が破裂し、それが四方に飛散して使用不能となった。そこで以前に陸軍省に払い下げを願っていたアームストロング砲の来着を待つことになった。この砲は今まで使用していた砲体より大きく、砲の全長一八〇センチメートル余で砲架は木製の野戦砲車であった。代価は五〇円であったが東京からの運賃がほぼ同額の五十余円にもなり、関係町村の財政が許さないため、長野中牛馬会社社長中沢与左衛門がその費用を負担したという。
やがて同年一月三十日に号砲が来着、二月三日に西長野加茂神社において戸長樋口兼利、同役場筆生(ひっせい)と市中有志者および中牛馬会社員等立ち会いのうえ、都合八回の試発を実行した。弾薬一八〇匁(もんめ)(六七五グラム)・二〇〇匁(七五〇グラム)・二五〇匁(九三七グラム)・三〇〇匁(一一二五グラム)の四回の試発をして比較したところ、三〇〇匁が適当ということになった。
号砲の位置についてもいろいろ論議があり、同年二月十一日憲法発布日に狐池字一本松で放発した祝砲は、近隣の諸村落はもとより、三里以内の松代まで手に取るように聞こえたという。そこで、多少の苦情もあったが、関係者が協議して号砲の位置を一本松に決定して、午砲は長く長野市域の人びとの生活の節目となり親しまれた。その後大正二年(一九一三)、一本松地区が水道浄水用地となったため、午砲の位置は安茂里(あもり)村平柴(ひらしば)(水道山)に移転された。そしてサイレンが設置された同十四年六月まで午砲はつづけられた(『信毎』)。