大勧進の養育院

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社会福祉施設養護老人ホーム尚和(しょうわ)寮および児童養護施設三帰(さんき)寮の前身である大勧進(だいかんじん)養育院の創設は、明治十六年(一八八三)三月十日であった。当院は、当時の大勧進副住職奥田貫照師の創意にもとづいて創立された。奥田は明治十二年の夏の朝、善光寺境内に男子の捨て子があったのを救いとったのを機に、よるべない幼老の身の上に深く同情をよせ、これらの不幸のものを救護することこそ如来の慈悲であり、寺院の歩むべき新しい道であると確信した。そして、ときの大勧進住職村田寂順師と協議のうえ、長野県令大野誠らと熟議を重ねて、幼老保護施設として大勧進養育園を創立する方針を立てた。そして、善光寺一山の同意のもとに、市内の有力者・篤志家(とくしか)を説いて賛同を求めて、明治十五年七月十二日「今般有志の者が協議の上、貧民養育院を大勧進邸内(ていない)に仮に設置したいので許可願いたい」と、願書を県に提出した。


写真47 大勧進内の養育院 (『長野の百年』より)

 これに対して同年十月十八日、長野町戸長役場を通じて県から同意書が出されて、大勧進邸内に養育院を設立することになった。創立基金の五〇〇〇円の出資は、天台宗一山で二五〇〇円、大勧進寺坊から二五〇〇円それぞれ負担し、副住職の奥田貫照は自ら最高額の二五〇円を出資した。

 この五〇〇〇円から生まれる利子を骨子として一般篤志家に呼びかければ、二〇人収容に要する経費約五百円の元資金が得られるものと目安をつけて、明治十六年三月十日発足した。

  役員

   院長  村田寂順  同  若林桂造

   副院長 奥田貫照  同  小坂善之助

   監督  和田海王  同  倉石吉左衛門

   同   和田郡平  同  中沢与左衛門  (下略)

 奥田貫照は養育院設立の動機を「社会の進展に伴い生存競争は日一日檄烈(げきれつ)を加え、所謂(いわゆる)社会の落伍者(らくごしゃ)を生ずるは止むを得ざる社会的欠陥(けっかん)であり、このまゝ放任するにおいては、国家将来のため寒心に耐えざるなり」として、とくに身寄りのないこどもや身体に障害をもつこどもたちの救済は急務であると、開設にさいし町内有力者へ語っている。


写真48 養育院資金寄付受取書
(北村修一所蔵)

 開設にあたって一般有志の寄付申し込みもかなりあり、明治十五年から同二十七年十二月までに三二九三円余となった。しかし、善光寺山内の維持金の未納額もかなりあり、一般寄付金の利子の納入不足も目立ち経営はかなり苦しかった。それに対して貫照自ら托鉢(たくはつ)したり、篤志家に呼びかけ協力を得る努力もしたのである。

 養育院の経営の実態は、「養育院設立方法」を基準にした「養育院規程」「養育院事務章程並職制」などにより読みとることができる。

 まず入院条件については「入院ヲ乞(こ)フ者アレバ其証票ヲ検案シ、其身体ヲ審査シ相当ト認ムルトキハ之ヲ許ス、若(もし)強壮ニシテ徒(いたず)ラニ労苦ヲイトヒ、安ヲ偸(ぬす)ムノ者ト思料スルトキハ堅ク許サザルベシ」(「養育院事務章程」第七条)ときびしく定めている。

 また、入院者に将来自活の道をあたえるべきであるとし、「入院者健康ニシテ産業之(これ)ナキ者ヘハ適宜之(の)業ヲ教ヘ、自活ノ道ヲ開クベシ」(設立規約書)とし、授産事業として大工・左官などの技を習得させ、一日も早い社会復帰の道を講じた。

 明治三十年の収支決算書(表46)によって実際運営をみると、収入科目中に慈恵箱収入、公園掃除料、入院者上げ銭などがあるが、慈恵箱は無名篤志家から零細な金の喜捨(きしゃ)(寄付や施し)を受けるために、明治二十三年に大勧進・別所観音堂(上田)および長野遊郭の三ヵ所に設けたのがはじまりで、そののち県下一八ヵ所と越後国五智国分寺(上越市)にも備えつけた。とくに長野遊郭に置かれたものが毎年きまって相当の額をあげており、それはほとんど娼妓(しょうぎ)の喜捨によるものであったという。


表46 明治30年収支決算

 入院者上げ銭は、明治十七年から入院者に作業を課した収入で、手業あるものは手業に従事させその半額は院の収入とし、半額は本人の収入として院で保管貯蓄し、退院のときに渡していた。このほか、公園掃除料は二十七年から市の委託で実施したもので、入院者で働けるものは座食させることなく、幼童学齢者も帰校後一定時間手業に従事させ、あとは手習などをさせた。

 なお、入院者数は表47のようであった。


表47 養育院入院者数