明治初年の洪水として大きなものは、明治元年(一八六八)の千曲(ちくま)川・犀(さい)川の大洪水であった。このときの水害は、現長野市域の全域におよび、とくに千曲川・犀川の合流地域に被害が大きかった。真島村の堤防はすべて流失し、その地域の水害は八〇町歩(七九・三ヘクタール)におよび、損害は四万三千余両といわれた。
明治十五年九月下旬から十月の下旬にかけて降りつづいた大雨は、県下各地に災害をもたらした。『信毎』は「千曲川の洪水、前に記せしごとく、去る二日の水増しは維新以来の大水にして、その状況は凄(すさ)まじきこと実に言語に絶えざる。中でも埴科郡松代町のごときは、一面に千曲川の水に浸(ひ)たされ、家々人々の困難言うばかりなく」と報じた。このときも真島村の堤防二ヵ所が決壊し、浸水人家一二〇戸、冠水(かんすい)田畑一〇〇町歩(九九・二ヘクタール)に達した。更級郡小松原の用水路はこわれ、作業員約二千人が動員されてその修復にあたった。また、千曲川・犀川の合流地域である上高井郡川田・牛島の両村は堤防が破壊され、福島村地籍の四ッ屋・土屋坊(どやぼう)の両組は、一面の大湖となり秋作は皆無となった。鶴賀村の南部を流れる南八幡川は、裾花川からの取り入れ口が破損して枯れ川に変じ、農作物の成育に大きな影響をあたえた。
十月十八日、長野県令大野誠は、大蔵卿松方正義に、水害についてつぎのような上申書を提出した。「先月二十九日の夕方から本月二日の明け方まで、間断なく降雨があり、連山の出水が犀川・千曲川または天竜川の各川に落ち合って、そのために平水より高度一丈(じょう)(三・〇メートル)余の洪水となり、本支流とも橋げたが落ち、船橋を流し、人馬の往来ができなくなった。これに加えて、川の沿岸の村落は一面に湖となり、田圃(たんぼ)はもとより、道路・堤防は破壊され家屋は流失し(溺死(できし)の有無不明)、水害を受けない郡は皆無である。なかでも松本市街、更級郡塩崎村の篠ノ井駅及び埴科・上下水内・上下高井の七郡の被害がもっともきびしかった」。
三年後の明治十八年には、六月から七月七日まで連日の大雨があり、千曲川・犀川をはじめ中小河川の氾濫(はんらん)による水害が発生した。とくに千曲川筋の被害は大きかった(表50)。埴科郡下では堤防六五ヵ所、橋梁二七ヵ所、田畑七八七町歩(七八〇ヘクタール)が流失した。このときも千曲川・犀川の合流地域の水害は大きく、真島村堤防(石腹付)も七五間(一三六メートル)にわたって決壊し、浸水家屋は一三五戸におよんだ。また、青木島村下河原犀川堤防も決壊し、田畑三五町歩(三四・七ヘクタール)が流失した。さらに赤沼・長沼・津野の三ヵ村は全村が水没し、冠水耕地は五〇〇町歩(四九六ヘクタール)におよんだ。
この水害に対して、『信毎』は社説を掲げて、県議会に抜本策の樹立を要請した。その内容は、「水害の原因は、山林乱伐であり、水利や堤防の不完全なためであって、将来のために根本的な対策が必要である。今回の水害によって、多くの田畑が流失し、本県の名産である養蚕業も大きな損失を受けた。これに対する県の予算は、微々たるものである。すみやかに臨時県会を開いて、治山治水のための植林事業・堤防修繕構築事業を推進せよ」、とするものであった。