明治初年の治水事業は、規模は小さく技術も低く、その場しのぎのものが大部分であった。したがって堤防の修築など、毎年繰りかえさなければならなかった。このなかで後世に残る大工事は、明治三年(一八七〇)六月から五年四月にかけておこなわれた、千曲(ちくま)川の瀬直しであった。この工事は、現中野市の立ヶ花橋の下流、栗林から大俣にかけて東へ大蛇行していた千曲川を、現豊田村の上今井村地籍に新河川を開削して、直流させたものである。
この地域にこの事業が起こされたのは、弘化(こうか)四年(一八四七)の大地震によって、岩倉山がせきとめられ、これが押し出して大屈曲の部分の河床が高くなり、水害が増加したからである。水害を受けやすくなった地域は、上水内郡長沼地域と下高井郡延徳(えんとく)地域を中心とする六七ヵ町村であり、この工事を実際に推進したのは、長沼地域の赤沼・津野・穂保(ほやす)・大町の八ヵ村と延徳地域の二一ヵ村であった。工事期間中の三年間、関係地区の農民は、戸主であるものは男女を問わず人足に出て、昼夜の別なく寝食を忘れて働いた。農事は老人やこどもに任せ、もし成功しなければこの地で生活はできない、生きるか死ぬかの分かれ道とばかり、一筋に働いたのである。この千曲川の瀬直し工事の結果、川上の一〇〇ヵ村近くが水難からまぬがれ、これまでの水害地域にも作付けができるようになった。民費五十七万五千余円、民部省補助金四二八七円が投ぜられ、沿岸の村々から延べ二十三万五千余人を動員して、延長六五六間(一一九三メートル)・川幅七五間(一三六メートル)の河川開削の事業は完成した。
しかし、現長野市域における千曲川・犀川沿岸の諸村は、その後も水害がつづき、堤防修復などにかかわる諸願いはあとを絶たなかった。洪水等の被害とそれへの対応策の実態を示すものとして、上水内・上高井の各村から県庁へ提出した明治十四年の「道路・堤防・橋梁・川除修築願」(表51)がある。これにあげられた被害内容は、堤防・土手の決壊がもっとも多く、工事内容としては堤防修復のための杭(くい)打ち菱枠(ひしわく)づくりが主なものであった。
水害対策の一例をみると、大豆島村では明治十八年七月の犀川洪水により、大豆島地区の狐島・川端向の二つの堤防が決壊した。犀川洪水のつどこのような被害を出していては困るので、至急実地検査のうえ普請(ふしん)を許可されたいとの請願が県へ出され、認可された。工事内容は、堤防の高さを増し幅を広くして堅固なものに修復しようとするものであり、必要経費の一五〇〇人分の賃金二一〇円は村費をもってまかなうというものであった。実際には、この経費の大部分は、村内外の有志の寄付金に頼っていた。
明治前期における水害対策は、その大部分は地元負担であり、工事も局部的でその場限りのものが多く、将来を見とおしての統一的抜本的な手立てを欠いていた。治水のための地元負担が重くなると、中小農民の没落をうながすことになり、ひいては小作料の収納をも困難にした。
そこで県は、明治十八年の「治水費支給川制限」と十九年の「長野県土木条規」によって、地元負担のあり方と国・県の支出の限界について基準を明らかにしようとした。現長野市域関係では、千曲川・犀川・裾花川の工費が地方税負担となり、その他は関係町村の負担となった。ただし、浅川・裾花川(中御所村白岩以北)は、半額以上を地方税負担とした。これらの改善策によって、明治二十年代の防災対策はさらに進展することとなった。