消防組織のめばえ

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明治初期の消防組織は松代に例をとると、江戸時代の延長であり、村内各地区単位の私設の消防組の段階にとどまっていたと考えられ、消火器は手つき木製ポンプである竜吐水(りゅうどすい)が主体であった。明治五年(一八七二)、松代町長国寺の火災に対しては、藩の消防が解散したあとのことで、恐慌をきたした。その後、松代警察署の勧めで、同十三年にフランス型の第一号ポンプを買い、町内の有志に使用させた。松代地区においての自衛的消防活動は、同二十二年の松代消防組の組織の創設までつづけられた。

 現長野市域において組織的消防活動が始まった例として、塩崎地区の場合でみると、明治五年に長谷郷では、水鉄砲二本・高張り一本を所持しており、それが塩崎地区の組々における火防用具の装備の実態でもあった。明治十六年二月二十八日、戸長(こちょう)から上田警察署長あての「塩崎村篠ノ井駅の消防取調報告書」によれば、その装備・人員は「竜吐水一個、長鳶(とび)口一〇丁、平鳶二一丁、頭巾(ずきん)二一、半てん二一、提灯(ちょうちん)二一、水桶(おけ)四〇個、人足二二人」であった。十六年当時、塩崎地区には篠ノ井駅消防組が組織されており、公認の鑑札も受けていた。その後、十八年のはじめまでには村の中心部にも消防組がつくられ、消防組織は二組存在することとなった。

 当時の塩崎村消防組員の任務は、消防組の総代が村当局に提出した「請書」のなかにつぎのように規定されていた。①火災等の非常の場合にはすみやかに鑑札携帯で役所に集合して指示を受けること、②役所近くの出火はもちろんのこと、そのほかのことでも命令次第遅れることなく参集すること、③非常のときに病気等で参集できない場合は、代理人を出すこと、④組員であることを証明する鑑札は大事に保存し、他人に貸したり譲ったりせず、辞任のときは返還すること、⑤一年間の手当て金は七円とし、支給は総代を通しておこなうこと、など具体的に定められている。このように塩崎地区には、組員が鑑札をもち、代表者のもとに服務し、手当てを支給されるという公共的性格をもった消防組織がつくられていた(『塩崎村誌』)。しかし、現長野市域全般に本格的な消防組織ができるのは、市制・町村制が施行される明治二十二年以降のことであった。


写真52 松代消防組の消防札
(樋口和吉所蔵)


写真53 明治初期の手つき木製ポンプや竜吐水などの消火器機
(塩崎小学校所蔵)