教育令と教則の改正・学務委員の設置

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明治十二年(一八七九)九月二十九日学制が廃止されて、あらたに教育令が制定された。教育令は中央集権的な学制に対して、地方の裁量に任せるというアメリカの地方自治的な教育行政を参考にした制度で、①各学区に教育行政事務を担当する公選の学務委員を設置すること、②毎年四ヵ月以上の授業をおこなえば一学年を修了することができること、③卒業年限は四年でもよいこと、④学科課程については地域の実情に応じて学務委員と教員が自主的に編制できること、などを内容としていた。

 これをうけて、県は教則の改正を迫られることになり、十二月に県教育会議を招集した。長野県師範学校に集まった議員は、県下から五三人、師範学校教員五人(起草委員)で、現長野市域の四郡からは一一人であった。このなかには、長野学校(長野町)の渡辺長謙、洗心学校(三輪村)の志村思誠、海津学校(松代町)の松木薫正などのほか、日知学校(高田村)の石川誼臣(よしおみ)、格知学校(北長池村)の柳俊哲、日新学校(今里村)の成本治雄、敬義学校(綿内村)の井出修徳などがいた。また、長野県師範学校からは起草委員として衣笠弘・中野保・小林常男・河野通万・堀川常吉が参加している。この会議には、長野県令も初日に臨席し、甲乙丙丁の四つの組に分かれてそれぞれ討議した。はじめに学務官が教則の画一化を提案した。それぞれの郡の独自性を認める自由化について話し合われ、押し切る形で弾力的な教則成議案を議決した。ついで教則を二種とするか三種とするかについて討議され、いったん二種とすることに決定する。これに対して、志村をはじめとして三種説の再検討の建議書が提出された。しかし、北安曇郡の議員渡辺敏(はやし)(仁科学校訓導・のちに長野学校長)の意見で、二種のほかに簡易科を設ける折衷(せっちゅう)案で可決された。

 こうして、「長野県公立小学校模範教則」が作成され、明治十三年三月に文部省の認可を得て布達された。模範教則は、二四ヵ条からなり、第一教則と第二教則の二種類とし、第一教則の就学期を八年、第二教則の就学期を六年としている。また、第一教則の課程を一六級に、第二教則の課程を一二級に分けている。各級の修業は六ヵ月間で、各級試験で合格したものが昇級できるとした。さらに、運用にあたっては各校の都合で二種類の教則を併用してもよいとし、第一と第二は連続しているので第一教則を修めるもので第五級以下は第二教則を修めるものと同一に教授してもよいことになっていた。

 ところが実際には、教育水準の低下や衰退の現象があらわれたので、文部大臣田中不二麿呂が辞任して河野敏謙が就任し、十二月になって、この自由教育令は廃止され、再び教育令の改正がはかられた。この改正教育令は、地方の自由を制約し、就学の督促など、義務教育の向上をはかったものであった。第一六条には小学校の学期は三ヵ年以上八ヵ年以下とし、授業日数は毎年三二週日以上とする。ただし、授業時間は一日三時間以上、六時間よりは多くならないようにすることと示された。また、農学校・商業学校・職工学校などの実業学校の設置を認めている。


写真54 明治13年12月の松代学校の小学教則第十一級卒業証書 (樋口和吉所蔵)

 教則の改正にともなって、明治十三年七月に試験法が改正された。従来の方法に加えて大試験合格者には賞品をあたえることになった。さらに同十五年八月にも試験法が改定された。その内容は、小学校全科卒業試験を廃止し、初等・中等・高等科の各一級試験をもって、合格者に全科卒業が認定されることとなった。試験日は三月・五月・七月・九月・十一月の五回で、師範学校の教員が試験掛(がか)りになり、試験場には県の学務課員・郡書記官が臨席して試験が執行されることとなった。第一級試験の及第(きゅうだい)者には褒賞として書籍があたえられた。また、明治十六年、十七年と改定をへて、各学科の定点が一〇〇点となり、今までの、記憶中心の試験法から実物を使って見方・考え方を試したり、知識を応用して答えるものにしている。これは、長野県師範学校長能勢栄の開発教授・オブジェクトレッスン(実物教授)の影響である。

 小学校の事務を「管理」するものとして、明治十二年九月の教育令で学務委員を設置することになり、公選制がとられた。長野県は同十三年三月「学務委員公選規則」を制定し、①学務委員は官員・教導職・戸長(こちょう)・学校教員を除く満二〇歳以上の男子で、その学校組合町村に本籍住居を定めているものに限る、②選挙人も満二〇歳以上の男子で、その学校組合町村に本籍住居を占めているものに限る、③三年ごとに改選し、選挙期日は郡長が決め、④選挙人被選挙人名簿は戸長が調製することなどが規定されている。こうして第一回の選挙で選ばれた学務委員のうち、長野学校では内田與右衛門が当選し、上水内郡役所名で当選証書が送られている。

 文部省は明治十四年五月「小学校教則綱領」を制定し、これに準拠して「長野県小学校教則」が定められ、六月一日から施行となった。小学校教則綱領は、小学科を初等・中等・高等の三等に分け、初等・中等は各六級(三年)、高等科は四級(二年)とした。また、土曜日を除いて一日の授業時数は五時間とし、一年間の授業日数は三二週以上とした。さらに、土地によって学期や授業の日時を決めてよいことにしている。その後まもなく、改正教育令が公布されて、学務委員の公選制が廃止となった。この改正で、学務委員を学区推薦、県の選任制とし、選出母体が公立小学組合町村から学区内ごととし、選挙の結果定員の三倍の人名を郡長に具申し、県がそのなかから任命することとなった。県は、十四年十二月「学務委員薦挙規則」を公布したのである。学務委員の任期は、三年から四年に改められた。

 学務委員には、有給者と無給者があり、一人の給額を高くして、人材を確保するため、明治十七年には、定数を一区一人とした。また、県は学務委員の事務取扱所の設置を十五年一月に布達し、小学校の管理事務のため、世話掛りを廃して事務掛りを置き、校内の雑務を取り扱うものとした。また、十九年四月一日より小学区画改正により、一区一校制を実施し、長野町・西長野町・茂菅(もすげ)村・南長野町・鶴賀町は第一番学区となり、今までの長野学校・正誠学校・朝陽学校は「水内郡第一番学区長野学校」となった。そして、長野学校を本校とし、朝陽学校を南長野支校、正誠学校を茂菅派出所とした。また、本校に男子を、南長野支校に女子を収容することとした。