明治十四年(一八八一)と同十七年の現長野市域における各小学校の在籍生徒数と出席生徒数は、表52のとおりである。これによればこの時期現長野市域には、小学校が上水内郡三八校、上高井郡六校、更級郡二五校、埴科郡九校、計七八校があった。途中校名が変わったり、この時期に新たに設置された学校もいくつかみられる。このうち、校名の変更では村名と同一の校名になったものが多い。どこの小学校も在籍生徒数は男子が多く、女子が少ない。学校によっては女子が皆無とか数人というところもかなりある。全体の合計でみても、女子は男子の三分の一以下である。出席生徒数をみると、在籍数に比べて概して出席はよいといえるが、やはり女子は男子よりも低い。しかし、女子でも在籍の生徒は比較的よく出席しているといえる。十七年になると、まず在籍数が男子も女子も増加するが、とくに女子は十四年に比べて二倍以上に増加する。そして、出席数も二・五倍近く増加する。
このように明治十年代前半から後半にかけて、生徒の在籍数や出席数が男女ともに増加したのは、学校職員や事務担当者の熱意と努力があったためである。
現長野市域の教員の構成を表53でみると、明治十四年には、教員七五人、訓導六五人、授業生・助手四五五人、計五九五人であり、訓導の占める割合は一〇・九パーセントとなっている。大部分が授業生や助手に頼っていたのである。また、訓導六五人のうち女性は一人もいない。女性の訓導がはじめて登場するのは、十八年になって長野学校に二人の女性訓導が赴任したときである。十七年になっても、校長と主座教員を含めた訓導は八七人で、訓導の占める割合は一一・一パーセントとあまり変わっていない。主座教員・校長をみると、十七年になって朝陽学校(南長野村)に根本静が、日新学校(今里村)に小林常男が、松代学校に金井清八郎が校長として就任し、現長野市域ではこの三人であり、全県でも六人だけであった。授業生・助手の占める割合は、九〇パーセント前後とあい変わらず高い。
この時期の校舎建築は、借家・和風平家・和風二階・洋風二階と分かれる。現長野市域の学校では、明治十四年には洋風二階建ての校舎は一〇校のみで、あとは和風二階建てが一五校、和風平家建てが一九校、借家が三二校となっている。十八年には洋風二階建てが一二校、和風二階建てが二二校、和風平家建てが二六校、借家が一一校となり、生徒数の増加とともに新校舎の建築が進んでいる。
明治十二年の日新学校の学校費用は、表54のとおりであり、学校教育費の大部分は、人件費が占めていた。授業料は別に学務委員が徴収し、村役場に納入していた。生徒の一ヵ月の授業料は、尋常一年が五銭、二年が一〇銭、三年が一五銭、四年が二〇銭であった。