上水内郡町村立中学校の設立

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明治十六年(一八八三)六月、上水内郡連合町村立の上水内中学校が、長野町に創設された。長野県下には、すでに東筑摩中学校(明治九年松本変則中学校として創設、十四年改編)、小県(ちいさがた)中学校(十一年上田変則中学校として創設、十四年改編)、下伊那中学校(十四年設立)があり、県下では四番め、北信地方では最初の設立であった。

 上水内中学校の設立以前、上水内郡が所属する第十四中学区における中等教育は、明治八年六月長野町の長野県講習所(明治六年九月開設、八年十二月師範学校と改称)内に設けられた予科学校が代行していた。予科学校は、小学校教員志願者に対して、講習所入所前に、六ヵ月の予科教育をおこなうことを目的としていたが、同時に教員志願者以外のものも受けいれ、歴史・理科・算術・作文など一般教養の教育をおこなった。また、八年十二月、講習所が師範学校と改称するさいに新築した講堂と寄宿舎は、のちに中学校として使用する予定であった。

 中学校の設立は、明治九年の旧長野県と筑摩県の合県後、上等小学進級者数の増加や師範学校支校(予科学校の後身)廃止の動きによって、緊要の問題になり、十年八月、県は中学設立計画を立てて上申するよう管下に通達した。これを受けて、埴科郡が、当初小県郡とともに上田変則中学校の設立に参加したが、中途でその締約を解消し、郡独自の中学校を設立しようとした。設立方法等をめぐる郡内の紛議をへて、松代町ほか八ヵ村は、十四年一月校地を松代町に定め、十五年に開校するむねの連合町村立中学校設置願いを提出し認可された。しかし、翌年六月には、物価騰貴(とうき)による困窮(こんきゅう)や小学校全科卒業生が少ないことを理由に延期願いが出された。結局、翌十六年になっても設立は進まず、この計画は中止のやむなきにいたった。

 明治十四年七月には「中学校教則大綱」が、各府県へ達せられた。これによって修業年限・学科目など中学校の教育内容が示され、県はこれを管下に布達し、中学校の学科課程などについての体制をととのえた。いっぽう中学校の管理事務についても、十二年の郡役所の設置を受けて、郡単位の連合町村により設置・維持され、学務委員がその管理にあたる体制を確立した。

 上水内中学校設立の議案は、明治十六年二月から三月にわたる上水内郡町村連合会に提案された。この連合町村会は、郡区町村編制法によって新たに設置されたもので、各町村から一人ずつ選出された議員によって構成されていた。この町村会の議事冒頭で、郡長船越重舒は「県下においても松本・飯田・上田等の地方は、すでに中学校を設立している。郡においても、十五年までに小学校全科を卒業するものが千名になる。したがって、中学校設立は遅れたりといえども、時期尚早ということはない」と述べ、中学校設立の必要性を強調した。しかし、審議はかならずしも順調に進まず、可否両論と延期論に分かれて論議された。不景気による人びとの困窮を理由とする設立不賛成説、経費上の理由から校長廃止・首座訓導兼務・教員減員案が出され、学校位置についても長野学校借用の原案にたいして、吉田町・南長野町案が提出された。また、郡外生徒の入学拒否・授業料増徴案も出されるなど難航の結果、教員を四人から三人に、予算を多少減額するなどして、原案を修正して可決された。

 郡役所は、県の認可を得て、明治十六年四月二十三日、「上水内郡公立中学校設立規則」「公立上水内中学校創立費予算」等を告示した。それによると、校名は「上水内中学校」、位置は長野町、学区は全郡、職員は校長一人、教員三人、学務委員一人、事務掛り一人の計七人であった。入学志願者の募集は、十六年五月二十六日に公告され、郡内生徒五〇人、郡外生徒五人を定員とし、願書締め切りを六月十日とした。入学試験は、小学校中等科卒業のものは免除し、その他のものについては、読書・作文・筆算・歴史・物理・地理の試験をおこなうとしている。また、教員には二等教諭兼校長として、小早川潔が任命された。

 校舎は、長野県師範学校が松本へ移転したあとの長野村竪石(たていし)の校舎を使用することとなり、開校式は、明治十六年六月二十九日、その講堂でおこなわれた。入学生徒二三人、県吏郡長らが臨席、師範学校長能勢栄らが祝辞を述べた。『信毎』によると、「朝陽学校の女生徒二二人が楽唱歌のために参加し、全参会者は一二〇人余りで、開会に先だち赤飯の供応があった。その他市内外の拝観人が一〇〇余人あった」という。