上水内中学校の経費について表55でみると、その収入の九〇パーセントが郡内町村民への賦課金によっている。その賦課方法は、地価割り・戸数割り・建坪割りを併用した。総額三四四〇円余のうち半額一七二二円余は地価四銭七厘余の割りで賦課し、他の半額は戸数割りで賦課するが、そのうち六八九円余は一戸あたり二銭九厘の割りで平均割りとし、一〇三二円余は一坪一銭一厘余の割りで建坪割りにした。このように地価割り・戸数割り・建坪割りで郡内町村民に賦課する協議費によって運営することは、他の東筑摩・小県・下伊那各郡の場合と同様であった。
上水内中学校の管理運営の主体は、郡町村連合会である。学校設立規則などは郡告示の形で公布され、「公立」ということばが使われている。また、協議費(賦課金)も郡長から戸長経由で課せられており、郡も監督官庁として、その管理運営に深くかかわっていた。しかし、その設立は連合町村会の議決によるものであり、協議費の額の決定権も町村連合会にあった。したがって、あくまでも管理運営の主体は、郡町村連合会であり、町村連合会立の中学校であった。
中学校の実際の管理運営は、学務委員があたった。学務委員は、本来小学校の管理運営にあたるために置かれ、中学校についての規定はなかったが、明治十六年六月、県から中学校にも学務委員を置くよう通達が出て制度化された。上水内郡でも、学務委員一人が選出され、経費の調査、校内規則の制定などにあたった。
「中学校教則大綱」では初等科四ヵ年、高等科二ヵ年であるが、設立当初の上水内中学校は、初等科四ヵ年だけであった。入学した生徒は、この時期の小学校同様等級制によって編成された。初等科四ヵ年は、それぞれ六ヵ月間の第八級から第一級まで八級に分けられた。級ごとに試験があり、その試験の成績によって進級するもの、原級にとどまるもの、また、成績によっては二級特進(飛び級)するものもあった。明治十七年前半のものと推定される学校概況報告によると、開校当初の入学生徒四四人はすべて第一学年前期第八級の生徒とし、甲乙二組に分けて教授した。ところが、生徒の学力がさまざまであったので、入学後半年にも満たない十一月に臨時の試験をおこない、その成績によって学力に相当する級に進ませた。
その結果、第二年前期六級一四人、第一年後期七級一三人、原級六人となった。また、中途退学者も多く、創立以来の生徒総数六一人のうち一四人が退学している。父兄の転任、転学の四人以外は、家計の都合や学資の支給困難など経済上の理由や病気によるものであった。校舎寄宿生は八、九人で、他はみな通学生であった。