明治十七年一月「中学通則」が制定された。これは、中学校の目的・教員資格・施設などの基準をはじめて定めたものであった。教員については、中学師範学科あるいは大学科卒業生が少なくとも三人以上と規定されていた。当分は「県令が相当する資格があると認める者は文部省の許可を得てこれに代えることができる」という緩和条項があったが、当時の高等教育の水準からすると大変きびしいものであった。また、理科の器械・標本の充実、理科実験室・体操場の整備も求められた。これらの基準を満たすためには莫大(ばくだい)な経費を必要とし、郡内町村民への賦課に依存する町村連合会にとっては、その財政負担力をこえるものであった。ここに、かねてからの懸案である県費による県立中学校の設立を要請する理由があった。
このような情勢を受けて、明治十七年三月の県会において、島津忠貞議員から中学校設立の建議案が提出され、県会において審議された。この県会が松方デフレによる民間の困窮を理由として、予算を削減する方針であったため、設立反対論も強く激しい論戦になった。しかし、「不景気を挽(ばん)回し商権を拡大するためには人材の養成が急務」とする島津や松沢求策らの主張が通り、県立中学校の設立が可決された。
こうして明治十七年八月、県立中学校設立の県布達が出され、これまでの連合町村立中学校を引きついで、本校は長野町、支校は上田・松本・飯田の三ヵ所に設置されることになり、九月十四日開校式がおこなわれた。長野本校の施設は、上水内中学校のものをそのまま引きつぐとともに、師範学校の議事堂を借りた。経費については、県立中学校であるのですべて県費で、十七年の予算総額一万三一一二円が、長野本校および三支校に配分された。長野本校は四五〇〇円余で、上水内中学校のころの二倍近い額を得ている。
入学資格は、これまでの上水内中学校の場合とまったく同じだが、全員小学校中等科程度の修身・読書・習字・算術・地理・歴史・図画・博物・物理の各科目について、試験を受けなければならなかった。
県立中学校長野本校の定員はおよそ一四〇人で、明治十八年からは毎年四〇人を募集している。しかし、志願者は少なく、十七年九月の募集には九人のみ、再募集をして一三人を入学させた。十八年一月の生徒総数は、定員一四〇人の半数ほどで、とくに一級・二級の生徒は一人もいなかった。教員は、十八年には校長をふくめ九人で、上水内中学校のころの三倍となっており、施設設備とあわせ、県立中学校になって大幅に整備等が充実している。長野本校の教員には、校長小林有也(うなり)ほか小早川潔・志賀重昂(しげたか)・中野保ら九人がいた。小早川は、上田の出身で東京師範学校中学師範科を卒業、上水内中学校から長野本校の一等教諭となった。中野は、東京師範学校小学師範科卒業後長野県師範学校に来任、上水内中学校の設立とともにこれに転じ、長野県中学校創立にあたって一等助教諭に任ぜられた。のちに長野町に中野塾を開き、長野県尋常師範学校の予備教育をおこなった。志賀はのちに高名な地理学者となり、『日本風景論』の著者である。