県立尋常師範学校と尋常中学校の移転

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明治十九年(一八八六)四月、「小学校令」「中学校令」「師範学校令」が公布された。これは、この三種の学校を尋常・高等の二段階に分け、「帝国大学令」とあわせ四種の基本的な学校体系をつくることを意図していた。これにより長野県中学校は長野県尋常中学校と、また長野県師範学校は長野県尋常師範学校と改称した。

 これより以前、明治九年の長野県と筑摩県の合県後、両県の師範学校は合併して、長野に本校、松本に支校が置かれ本支校制になった。翌年には予科学校の後身である飯山・上田・岩村田などの支校も廃止された。十五年には初代専任校長として能勢栄が就任し、十八年までの在任中には、学科課程など各種の整備・改革がおこなわれた。また、能勢は開発教育を県下に広め、唱歌・体操教育の開始にも意をそそいだ。十六年九月には、本校と支校を統合し、師範学校は松本に置かれた。本支校の統合・松本移転については、合県後とかく南北対立があり、それが移庁論のちには分県論の動きとなる流れのなかで、県財政の行き詰まりとあいまって、十三年の県会から再三論議されてきており、十六年三月の県会においてようやく実現することになった。併合・松本移転の事由としては、勧業博物場の建設と県会議場の新設を増税でまかなうことがむずかしく、師範学校を松本支校に移すことによって、長野本校跡をそれに充当するのが一挙両得であるという政治的な配慮があげられている。県学務課長の肥田野畏三郎は、「支校への合併は差し支えないが、学務課と親密な関係にあり、隔絶すると気脈を通ずることができないことを憂う」と懸念を表明している。なお、このとき県は、松本に県立中学校を設置する構想を示したが否決され、現行の郡町村立の公立中学校の整備充実をはかるために、町村教育費を増額する方向でまとめられた。

 こうして松本に統合、移転した師範学校であったが、明治十八年の「師範学校令」公布を機に再び長野町に移転することになった。明治十九年、県はまず文部大臣に師範学校移転の認可を受けたうえで、同年八月の臨時県会で、松本にある長野県師範学校を「師範学校令」による尋常師範学校として、夏期休業明けから長野に移転し、それにともなって長野に本校、上田・松本・飯田に支校のあった長野県中学校を統合し、「中学校令」による尋常中学校として、松本の師範学校跡に移転することを提案した。提案理由として、学務課長は以下の点をあげている。師範学校については、①「師範学校令」の公布によって経費の面でとくに生徒費と建築費の必要が生じたこと、②兵式練習場等広い敷地が必要なこと、③師範学校は他の学校と異なり、小学生徒の試験や教員講習など普通教育に関する万般の事項について学務課と密接な関係があり、松本では遠隔すぎて不便である。「師範学校令」に師範学校長は学務課長が兼ねてもよいとあるので、県庁のある長野町に移すのが適当であること、である。また、中学校については、①松本の師範学校跡に県立中学校を統合すれば一挙両得で、年度当初の本支校分の中学校費でまかなうことができるなど財政的措置を必要としないこと、②中学校は、師範学校ほど学務課と直接の関係は必要ないこと、③位置的にも生徒募集に便利であること、をあげている。


写真56 師範学校校舎 (県立長野図書館所蔵)

 この提案をうけた県会の論議では、師範学校の移転については、中信地方の議員らから反対意見が強く出されたが、最終的には圧倒的多数で可決された。その背景には、松本移転後も師範学校の統廃合や位置問題はたびたび県会においてむし返されていたこと、十八年の能勢校長の退任や「師範学校令」公布を機に一挙に長野移転を断行して尋常師範学校への改組を実現し、多年の位置問題を解決しようとする県の強い姿勢があったこと、また、県会においても「師範学校令」が相当の重みをもって受けとめられたこと、などがあったとみられる。いっぽう、対照的に中学校の移転問題は、中信地方議員は賛成、北信地方議員は反対と対立し、僅差(きんさ)で松本統合案が可決された。県は、十八年九月師範学校と中学校の移転を告示した。なお、中学校の松本移転は、師範学校の長野移転にさいし、ことごとに対立のあった南北信のバランスをはかったともみられるが、このことによって、現長野市域には、二十六年の長野支校の設置まで中学校が存在しないことになった。


写真57 長野県尋常中学校の学資金領収証
(中村助夫所蔵)