教育の内容や方法、諸問題を協議する教員の職能団体である教員集会は、現長野市域においては、明治六年(一八七三)・七年郷学校が廃止、小学校が設立されるのにともなって発生した。小学校の設立によって、児童の昇級・卒業の認定は、近隣数校による集合試験によっておこなわれるようになった。この試験組合を学校試験組合といい、ここで「教法一致」のため研究協議がおこなわれた。これが教員集会の始まりで、近代教育制度の成立にともなって必然的に生まれたものであった。
上松学校(上松村)・積成学校(吉田村)・新徳学校(石渡村)・明融学校(桐原村)・洗心学校(三輪村)で構成する学校試験組合(明治七年十二月設立)では、明治十年には八月十一日・十二月二十七日に試験がおこなわれた。積成学校執事長田孝衛の日記によると、八月十一日の試験は、午前は洗心学校、午後は積成学校でおこなわれ、積成学校へは十二時ごろ学区取締北村門之丞ほか洗心学校教員二人、役人一人が来校し、試験は午後五時ごろ終了した。四級卒業生一二人には褒賞の扇子が贈られ、四級生・八級生一〇人、六級生二〇人に卒業免状があたえられた。また、十二月二十七日の試験では、積成学校教員五人が生徒二〇人を洗心学校へ引率し、試験を受けさせている。この試験は、客観化のため他校の教員がおこなうことになっており、本試験に備えて事前に各校でおこなわれた「内試験」にも、当事者である教員が出向している。試験の方法や点数の配分、及落の認定は、県が定めた「下等試験法」や「下等小学程期試験点則」によったが、具体的な試験内容は、当事者の学校と試験執行者で協議され、教育内容や方法にまでその範囲がおよんだとみられる。
教育の内容や方法の一致を目的とする教員集会の必要性は、学校設立にあたって、有資格教員の不足や教材・教具の不備という現状をふまえて、学校設立当初から認識されていた。現長野市域が所属する第二十五大区では、明治八年八月六日に第一回小学教員集会が、石村(豊野町)の長秀院で開かれ、その後もほぼ継続して開催された。九年二月の「第廿五大区教員集会決議案」によると、集会では不就学者問題や夜学の振興、集会費用などについて協議しているが、教育の内容や方法にまではおよんでいない。なお、この集会がどのくらい存続したかは明らかでないが、この教員集会の開催によって、集会の単位が試験組合から大区へと拡大したのである。
明治十二年には、同年公布の「教育令」を受けて、県教育会議が小学規則の改正を目的として開催された。この会議を契機として、地域での教則論議が活発になり、郡単位の教育会議設置の気運が高まり、上伊那教員集会が十二年六月に設けられ、つづいて下伊那にも創設された。このような情勢のなかで、上水内郡小学教育会議は、県教育会議員であった渡辺長謙(長野学校)・石川誼臣(日智学校)・柳俊哲(格知学校)らを起草委員として、明治十三年に設立された。この会議は、教員のみによって構成、議員は有資格教員と規定されており、有資格の教員による代議機関的な性格をもっていた。議案は「会員の意見より成るものとす」としたが、ときには県庁・郡役所・議長からの提案も認められており、教員の自主的な会議であるとともに、行政上の諮問機関的な機能もあわせもっていた。会場は、長野町の長野学校で、通常会は年二回、臨時会は県庁・郡役所の招集あるいは議員一〇人以上の請求によるものとした。なお、旅費・日当は各校が負担する公的教育会議であった。
上水内郡教育会議は、その後、臨時会では教員だけでなく郡吏を加えておこなわれたとみられるが、設立から一年をへた明治十四年四月九日、「閉鎖届」を県に提出した。教員だけの会議では、議決案件の実施にあたって不都合が生じるため、戸長(こちょう)・学務委員を加えた会として再編成するためであった。しかし、その後松方デフレによる深刻な不況下で、教育費の節減問題等から以後再開されることはなかった。