明治十七年(一八八四)三月、長野県下ではじめての私立教育会「長野教育談会」が、長野町に創設された。さきに、十二年の県教育会議を契機として組織された郡教育会議が、代議制で郡長の補助機関的な性格を帯びていたのに対して、長野教育談会は、有志教員による会費制・集談型の「私立」教育会であった。この長野教育談会につづいて、十八年九月には東筑摩郡私立教育会、翌十八年には上高井・南安曇・下高井郡などの各郡に同様の私立教育会が設けられた。こうしたあいつぐ私立教育会設立の背景には、明治十年代における自由民権運動の高揚や開発教授など新教育を求める気運の高まりがあった。
「長野教育談会規則」によると、「会員は中小学校の教員授業生に限る」とし、郡吏・戸長・学務委員など行政関係者を除外した。また、「会長・幹事は会員の投票をもって会員中より挙ぐる」こととしている。会の目的は、「教育学・学校管理法・教授術等に関する各自の意見」の演説・集談、「教育上の理論疑義、教授上の取捨得失」を討論することにあった。会場は、長野町の長野学校を使用し、月一回第二日曜日に開くこととした。明治十七年には一〇回の会合が開かれている。会費は月五銭、「会員に平等に分課」した。
長野教育談会発足当時(明治十七年二月)の会員は二六人で、その内訳は上水内郡一四人、更級郡八人、埴科郡・上高井郡・下高井郡・不明各一人となっており、長野町を中心とする近郊五郡の教員の会であった。仮幹事の秋野太郎(長野町)と土谷政吉(倉井村)は、のちに長野教育会および信濃教育会の幹事もつとめている。秋野は洗心・黒川・上水内北部・上田・松代の学校長を歴任、土谷も黒川・長野学校をへて上水内郡視学になった人である。
長野教育談会は、その設立の八ヵ月後「長野教育会」と改称された。改称にともなって県吏・郡吏など行政関係者が会員に加わっている。会の性格は教育談会と大きな違いはないが、教員以外に広く門戸を開いたため、会員数は飛躍的に増大し、明治十八年八月には一一五人になった。とくに上水内郡会員が大幅に増加しており、なかでも県学務課員・小学督業・郡書記・戸長・学務担当書記など、行政・監督・指導の立場にあるものが数多く加入している。教員も長野町近郊からしだいに郡下各地域に広がっている。会長には、長野県中学校教諭の小早川潔、副会長には県学務課属の後藤杉蔵(上伊那郡教育会創設者)が選ばれた。
長野教育会は、明治十八年には常会一一回、臨時会三回と精力的に開催された。翌十九年一月の会では、厳冬にもかかわらず出席した会員七八人を前にして、県令も「本会の永続を企画し、もって学校を翼賛するところあれ」(鳥山県大書記官代読)と、会に対する大きな期待を表明した。それに先だつ十八年八月の常集会において、会員でもある県学務課長肥田野畏三郎は、「本会を目今の如き小会に止めず、漸々進歩以て信濃全国教育会と為さんと欲す」と述べ、全県的教育会へ発展することを期待している。