信濃教育会は、明治十九年(一八八六)七月十八日、長野教育会を改編、全県組織とする規則改正の手続きをへて創設された。創立総集会における会務報告のなかで、副会長後藤杉蔵(県学務課首席属)は、規則改正の理由を、会員の全県交流の気運の高まりや要望にこたえるには、長野教育会の組織を拡大するしかないと述べている。この年には、「小学校令」「中学校令」「師範学校令」などが公布されており、また、県段階では学区を行政区に一致させて学校の経済的基盤としての安定をはかるために、学区の改編がおこなわれるなど、行政上学校機構再編の年でもあった。
会の目的は「同志結合して我邦(わがくに)教育の普及およびその上進を図る」(帝国教育会の目的と同文)こととし、この趣旨に賛同するものは、会費五銭を納め会員になることができた。また、会の事業は、「演説・談話・討議・講義・質疑及び報道」で、毎月第二日曜日を常集会、毎年七月第三日曜日を総集会と定め、これに参加できない会員のために誌上参加できる機関誌『信濃教育会雑誌』を発行した。演説・談話・討論をおこなう常集会は、前身の長野教育談会以来の会の中核活動で、第一回は、明治十九年八月八日長野中学校で開かれている。会誌は月一回の発行をめざして、信濃教育会創立と同時に準備が進められ、同年十月十五日に『信濃教育会雑誌』創刊号が発刊された。内容は、論説・雑報・報告のほか付録として学事に関する法令・規則・県達や諸伺などを掲載し、以後毎月二十五日に発行された。長野教育談会以来集談・討論の会としての性格を受けつぐ信濃教育会は、全県組織となるにあたって、当時の交通事情等からして全県会員の常集会への参加が望めず、したがって会員に常集会の内容を知らせ、また、誌上参加できる雑誌の発刊が必要不可欠であった。
信濃教育会創設当初の会員は、名誉会員一人・通常会員一四四人、その半数以上が上水内郡会員で、役員も会長肥田野畏三郎ほか七人全員を県学務課あるいは上水内郡内の教員が占めている。長野教育会が母胎であったこともあり、創設当初は上水内郡会員が会の中心であったが、以後他郡の教員や郡吏が加入し、会員数は増加の一途をたどっている。
明治十九年十月会長となった浅岡一(はじめ)は、運営上の不便不備の改善、部会の充実および本会との連携を意図して、「信濃教育会規則」の改正をおこなった。その結果、県下各地に部会が設置されるようになったが、上水内郡は本会所在地で、本会に直属する郡のため、明治三十三年十一月まで部会は設置されなかった。そして、明治四十年五月には長野市教育会が創立されていくことになる。
会の中心活動であり、毎月第二日曜日に開催された常集会は、長野県尋常師範学校・長野県中学校の移転にともない、その会場を長野学校、師範学校講堂と移転するが、会創設当初はほとんど休会することなく開かれ、毎回三〇~五〇人の会員が出席した。明治十九年二月からは「午前一〇時をもって開会し、午前は演説・談話、午後は実業に関係ある理化学等の試験をなす」とし、閉会時刻は午後三時から四時をめやすとした。だが、ときには終日討論し「例刻を過ぎ薄暮におよぶ」場合もあり、「次回の期に譲るべきことに決し、暮鴉(ぼあ)と共に解散」することもあった。明治十九年八月から同三十年四月、長野市制が施行されるまでの約十一年間に、常集会は一〇九回開かれ、演説二二七回、談話一一五回、討論二五回がおこなわれている。その発表者は、所属別にみると、県師範学校教員を中心として、県学務課・郡吏・視学など監督指導にあたる立場のものがほぼ半数、つづいて上水内郡の教員が四分の一を占めている。また、在住の地域からみると、上水内郡および近郊五郡の会員が九〇パーセントを占め、その他の会員は一パーセントにすぎない。会の中核活動である常集会の実態も、会創設当初は県・郡吏・上水内郡および近郊五郡の会員中心の会であった。
このような現状について、長野教育談会以来の会員であり、長野教育会で幹事をつとめた土谷政吉は、明治二十一年十一月の常集会において、本来実際に児童の教育にたずさわる小学教員の集談の会であるはずの常集会が、県教育行政・監督指導者主体になっていることを批判し、小学校教員に対して「爾後(じご)は出席も多くすべく、口も開くべし」と痛切に説いて発奮をうながした。翌十二月の常集会では、土谷の演説を受けて、更級・埴科両郡の学務担当書記有賀盈重(みつしげ)(歌人四賀光子の父)は、常集会の現況は教員のみの責任ではなく「本会の組織その当を得ざる」にもよるとして、組織について改正すべき事項を述べた。その内容は明らかでないが、こうした現状への批判を契機として、信濃教育会は教員中心の全県組織として整備されていった。
常集会もその後、上水内郡および近郊五郡の会員による教授方法などに関する発表が中心になっていったが、同時に参加者も少なくなり休会することが多くなった。とくに明治三十年以降は、上水内郡をはじめ近郊五郡の部会活動の充実もあって、本会の常集会はほとんど開かれなくなり、三十八年二月廃会となった。以後、本会の活動の中心は、講習会および研究調査に移っていく。なお、三十年代の信濃教育会の業績としては、教授細目の作成(三十二年、唱歌「信濃の国」も作成)、小学理科生徒筆記代用の刊行(三十七年、現『小学校理科学習帳』)などがあげられる。
『信濃教育会雑誌』への会員の寄稿も常集会と同様の傾向を示し、明治三十年代にいたって「同僚甲乙の辞令変動を示すのみに止まるその雑誌」と評され(『長野新聞』)、常集会の廃止など教育会事業の行き詰まりや批判のなかで、明治四十年「本紙の一大革新」をおこない、編集主任一人を専属とし、雑誌名を『信濃教育』と改題して、一教育会の機関雑誌ではなく「広く公衆に意見を発表する」一般対象の教育雑誌に改められていったのである。