『小学新誌』の発刊

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『小学新誌』は明治十二年(一八七九)十月に第一号が発刊された週刊誌である。社長は渡辺長謙(長野学校訓導)、編集長飯島貴、印刷長吉沢三良のスタッフで、本局は上水内郡徳間村(長野市徳間)に置かれ、支局は長野町元善町の松葉軒西沢喜太郎方に置かれた。定価は一部二銭六厘であった。新聞に比べると高価であるが、一号が平均二〇ページであるので割安感がある。


写真59 明治12年に週刊で発刊された『小学新誌』 (東京大学明治新聞雑誌文庫蔵)

 この雑誌の売りさばき所は、東京では銀座の「博聞社」ほか一店、松本二店、上田二店、須坂二店のほか、飯田・小諸・飯山・中野・小布施(おぶせ)・戸倉・岩村田にそれぞれ一店ずつあった。現長野市域では、松代二店・長野町二店、上野村(若槻)二店、吉田一店があった。業者の名前を見ると、吉田の長田書店をはじめいずれも現在につづいている、名のある書店である。

 また、第二号の社告によれば、この雑誌は教育上必要なことのみを掲げ、学務上必要なことに限り、公私の報告や書籍の広告、教育機器の宣伝を掲載する、とうたわれている。宣伝や広告は現在の「広告」の形ではなく、新聞記事のような扱いであるが、その代金は一行が二一字で一銭五厘であった。

 記事の内容は、冒頭の社説のほかに修身の教材、「児童の教育」というような論説が掲載されている。この児童の研究は「ヘラルド」からの抜粋である。明治十三年二月の第七号の社説は「教則施行の得失」であるが、これは明治十二年発布の教育令に対応する教則について論じたものである。

 同七号には小学校の教師が読んで参考にするものだけでなく、「朝陽学校の大変革」で同校教員の全員解雇というような記事も載っている。「学制」から「教育令」に教育法令が変わり、就学の強制がゆるくなり、小学校にペンペン草が生えたといわれる時期であるが、全員解雇の原因は学校経費の節減であった。教員給与の総額を月六〇円から三〇円に減じ、三〇円以内であれば何人の教師で担当してもよいという方針をとったのである。リストラによる全員解雇であったむねが報じられている。

 投書欄には、諏訪・下伊那・上伊那などからのものがあり、小学新誌の読者層は全県の小学校教師におよんでいた。第七号は全一〇ページであるが、そのうちの半分の五ページが投書欄である。第八号は教育令が発布されたことにともなう功罪を論説で扱ういっぽう、上水内郡開育学校(長野市浅川)上等六級生の作文をはじめ、更級郡・筑摩郡・上伊那郡の生徒の作文が掲載されている。