民衆と芸能

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江戸時代から民衆がはぐくみ楽しんできた伝統的な芸能は、江戸時代のきびしい規制が解かれ、幕末・維新の動乱で中止されていたものが復活し、ますます盛んになる動きがみられるいっぽう、旧藩体制下の芸能の庇護(ひご)者や支持基盤を失い、下火になっていくものがあった。また、これらの民衆芸能は、明治初期からつづく啓蒙(けいもう)的な文明開化政策のなかで、猥雑(わいざつ)な無用物とみなす政府や地方官の抑(おさ)えこもうとする動きと拮抗(きっこう)しながら、なお多くの民衆を熱中させた。

 善光寺門前町としての長野で、江戸時代から大勧進(だいかんじん)の指揮下でおこなわれていた祇園(ぎおん)祭は、旧暦の五月、妻科(つましな)の聖徳宮の天王下(てんのうお)ろしに始まり、六月十四日弥栄(やさか)神社の天王上げにいたるあいだの全町あげての祭典であった。とくに六月十二日、善光寺の創立者と伝えられる本田善光(よしみつ)の御逮夜(おたいや)(忌日の前夜)にささげる灯籠揃(とうろうそろ)い、十三、十四日の俄物(にわかもの)・屋台・傘鉾(かさぼこ)などのおねりの行列には、遠近から見物人が多く集まりにぎやかであった。この祇園(ぎおん)祭は、幕末の動乱のため慶応(けいおう)元年(一八六五)から明治三年(一八七〇)まで中止されていたが、同四年、東町・岩石(がんぜき)町・伊勢町・横町・東之門町・大門町・西町・阿弥陀院(あみだいん)町・天神宮町・桜小路・上西之門町・新町・横町の一三町惣代が連名で、祇園祭復興願いを中野県に提出し認められた。この願いには、「当所の町々は、農業をしている者がなく、善光寺参詣(さんけい)の旅人と交易することによって生計をたててきたので、御祭礼等を休むと参詣者も少なく、市内一同疲弊(ひへい)して難渋(なんじゅう)している」と窮状(きゅうじょう)が訴えられ、「御祭礼が復活すれば、町々が賑やかになり、町方一統の助成になる。もし、許可されたら、積年(せきねん)しきたりの弊習(へいしゅう)を除き、行列のやりかたを改正し、みだりがましいことがないよう尽力(じんりょく)する」と書かれていた。こうして善光寺門前一帯の祇園祭は復活し、年々参加する踊(おどり)屋台・俄物・底抜屋台の数も増え、盛大になっていった。


写真60 長野の祇園祭の弥栄神社

 この祭礼を明治九年七月に見物した横浜商人の『長野新聞』への投書によれば、「祭礼の晩の権堂は、東京の柳橋と吉原をいっしょにしたようなありさまで、弥栄神社の近くで灯籠揃いを見物したところ、数万本の灯籠や提灯(ちょうちん)が神社へは行かず如来堂へ参拝しており、神仏混淆(こんこう)のように見受けられるが、田舎にしては人出の多い、賑やかなお祭りだと感心した」という。また、同紙の八月の記事には、「毎夜市中や十字路で広がっておこなわれる盆踊りは、見物人も大勢出るため通行妨害になる」とし、「夜中までの盆踊りは、いつまで見ていても同じことをして、何がおもしろいのかばかげている」という意見も載っている。しかし、これらの祭礼や年中行事は、なおも民衆を熱中させ楽しませるものであった。

 権堂の秋葉神社の春・秋の例祭も、人を集めた。明治二十三年八月二十七日の秋祭りのようすは、『信毎』で「昨夜秋葉社の祭典は非常の賑わひにて、就中(なかんずく)、踊舞台・獅子(しし)舞の近辺は、山もて山を築き、身動きもできぬほどの雑踏(ざつとう)を極めたり」と報じられている。これら神社境内は、地域の人びとが獅子・神楽(かぐら)・舞・踊り・村芝居をおこなうだけでなく、相撲(すもう)や芝居興行を催す格好の場所でもあった。権堂の秋葉神社の場合も、当時はつぎのような興行がおこなわれている。


写真61 湯福神社祭礼相撲 二十山(はたちやま)重五郎の証文 (横沢町区有)

  明治十九年 七月  高千穂、相生(あいおい)、上潮、柏戸などの力士の相撲興行

  同 二十二年九月  大阪力士磯風音次郎、細見山留吉一行の相撲興行

  同 同   十月  二代目市川寿美之丞、坂東寿蔵、市川玉助の歌舞伎興行

  同 二十三年十一月 中村翫若(がんじゃく)一連の芝居興行

 他方、江戸時代には信州最大の藩の城下町として、藩主の保護策のもとに芸能を普及させてきた松代町では、明治になって旧藩の後ろ盾(だて)を失い、支持者であった士族階級の崩壊を受けて、すたれていくものが多かった。謡曲・能・狂言は、初代藩主真田信之の時代から観世(かんぜ)流の能役者を抱え、城中でしばしば催され、謡・仕舞・太鼓打ち・笛・小鼓の名手がいたが、明治維新以降はわずかに素謡がおこなわれるにすぎないほどに衰退(すいたい)した。石州(せきしゅう)流・遠州(えんしゅう)流などの茶の湯も同様にたしなむものはいたが、傑出した茶人はいなくなった。箏(そう)も、八橋(やつはし)流・生田流・山田流の三派がおこなわれていたが、廃藩後は教授者はいるものの、学ぶものが減ってふるわなくなり、三味線も遊芸人以外には稽古(けいこ)するものがほとんどなくなってしまった。いっぽう秋祭りのさいの草相撲は、変わりなくつづき、挿花は旧藩時代の池ノ坊に加えて、維新後は遠州流・宏道流・青山流の諸派が入ってきた。

 また、八代藩主真田幸貫(ゆきつら)以降、種がまかれた雅楽(ががく)は、松代出身の宮島春松が明治二十六年東京に日本雅楽協会を組織し、演奏会開催など普及にのりだした。二年後には、宮島の門弟の長岡資次郎を中心に雅楽協会松代支部も設立された。同支部は明治三十四年、宮島らの東京での試みが挫折(ざせつ)して松代に帰郷したあとは、松代雅楽協会本部となり、地域で独特の保存継承と音楽教育を展開していくことになった。

 なお、明治期の近代化の過程では、地域特有の舞踊や民謡も、変質したりすたれていくことも多かった。松代町では、笛や太鼓などの楽器を用いず、ただ音頭取りが「天気よければ松代様の城の太鼓の音のよさ」とうたい、それにつづいて、踊り子一同が「ホイ音のよさ、城の太鼓の音のよさ」と合唱し、円形をつくって踊りまわる単調な踊りが、旧藩の時代から城下町独特の盆踊りとしておこなわれていた。しかし、明治期になり、だんだん夜の踊りは風紀を乱すおそれがあるとして、警察の取り締まりがきびしくなり、日露戦争下の明治三十七、八年ごろにまったく姿を消してしまった。その後、民衆の娯楽として盆踊りが奨励され復活するが、もはや松代伝統の盆踊りではなく、木曽節や伊那節などの盆踊りに変わっていった。旧藩時代に松代の祇園祭礼の余興の一つとして催されてきた郷土舞踊や大門踊りも、廃藩以後はおこなわれなくなったが、のちに大門踊りは保存会によって継承されることになった。

 明治十年代から二十年代にかけて、劇場類もいくつか新築された。すでに同十二年出版の「長野町図」には、善光寺境内に常磐井(ときわい)座、権堂の秋葉神社の向かい側にツルガ座が載っている。また、長野公園地に喜鶴座があったが、同二十二年に引き払いを命じられ、東之門町の横山小路に鶴座と改称して移転した。同二十五年には、権堂に四五〇人収容の千歳(ちとせ)座が新設され、こけら落しに市川左団次が来演した。さらに同二十九年には、元善町にパノラマ館が生まれた。松代町の殿(との)町には、同十九年に海津座が設けられ、その後鳥居小路に松栄亭という寄席(よせ)も生まれ、祭文(さいもん)、浮かれ節、義太夫などが催された。

 長野県は、明治十二年に鑑札なしの芝居上演を禁止し、寄席、劇場、芝居茶屋、遊技場などを取り締まりの対象とし、かつ徴税の対象としたが、人々は従来の神社境内の興行のほか、新設の劇場で芸能を楽しむようになった。

 また、謡曲、挿花、俳諧、和歌、書画などの趣味・芸道が、松代町や長野町だけでなく、周辺の農山村へも普及している。とくに謡曲は、観世流が旧松代藩でも善光寺町でも盛んであり、明治はじめには観世流家元が、善光寺町西町の旧庄屋宮下銀兵衛を頼って長野に疎開していたこともあり、各地に謡曲の師匠が輩出し、数多くの門弟を教えた。川合新田の北村門之丞、西風間の竹内知義、芋井犬飼の大宮藤右衛門、同鈴木光義、長野町の岡本翆山(すいざん)、箱清水の山岸仁三郎、長沼村六地蔵町の村松広治などは、当時近在に知られた謡曲の師匠であった。

 挿花・華道は、南高田の堀内六兵衛が江戸に出て遠州流宗家につき、帰郷して一〇〇人余りに教授した。古牧にも中村重右衛門、野村友左衛門らの遠州流の師匠がおり、野村友左衛門は明治三十五年に皇太子(のちの大正天皇)が長野に来たとき、大勧進に挿花を献納したという。長沼村には宏道流から分かれた皇賞流がひろがっていた。皇賞流は、同十一年の明治天皇巡幸の折に、長野町の寺島久兵衛が秋の七草を瓶(かめ)に挿して天覧に供し、「むらきもの 心のはなを 折りそえて 瓶にもにほふ もろ草の花」の歌を下賜されたところから分派したものという。

 児玉果亭(かてい)に画を習った若槻村吉の玉井市五郎は、やはり明治天皇巡幸のとき、川中島展望の絵を奉献、大正期以降にも東洋画展・日本美術展などに入選した。新潟県出身の画家長井雲坪(うんぺい)は、明治十七年長野に移住し一年をすごしたが、翌十八年に帰京の折、寛慶寺で書画展覧会を開いた。

 俳諧、短歌を楽しむものも多かったが、なかでも若槻村稲田の田中鶴子は、明治二十年東京で編集された『明治百人一首』に入選、またのちに浅井洌や菅野惟勤らとともに「国風会」を創立し、詩歌の創作と普及にあたった。