明治九年(一八七六)に内務省は全国を対象にして、一定の標準形式を示して町村誌を編集させ、提出させようとした。長野県ではこれを受けて同年十一月、番外布達で「十二月末までに提出すること」と、約一ヵ月の調査期間をおいて提出させようとした。しかし、これはとうてい無理なことで、期日を過ぎても町村誌を編さんして提出する町村はなかった。そのため、県は翌十年四月二十日までに提出期限を延長したが、さらに提出がなく、かさねて五月十日まで期限を延長した。
明治十年中において、現長野市域で町村誌原稿の提出をみた町村はほとんどなかった。同十一年五月八日、埴科郡松代町副戸長(こちょう)玉井之進は、長野県少書記官松野篤あてに「去る明治九年に番外でお達しになられた、地誌の編集原稿提出につき、精一杯尽力して調査を進めましたが、どうしても予定通りに参りませんので、本年三十日まで、ご猶予をお願い申し上げます」と、提出期限の延長を願いでている。最終的に松代町が町誌原稿を県に提出したのは、同十六年十二月であった。
松代町と同様に、期限延長願いは同郡の清野村・東条村からも出されていた。現在、長野県立歴史館に保存されている町村誌の復本によれば、現長野市域の町村誌の提出状況は表57のようである。また各村ごとの提出年は表58のようであるが、明治十年中に提出したのは塩崎村の一ヵ村だけで、他は十一年以降であった。十三年、十四年、十五年に集中し、もっとも遅延したのは十八年二月の石川村であった。町村誌の編さんは各町村にとっては難事業であって、期限の延長を繰りかえして、全町村がそろうのに約十年の歳月を要した。
現存する町村誌の復本には欠落がある。現長野市域の平林村・鶴賀村・西和田村・東和田村・西尾張部村・北尾張部村・川田村・保科村・大室村などがそれである。のちにその欠落は、町村誌係員であった小県郡滋野村丸山清俊の要点筆写になる、いわゆる「丸山本」によって補われた。
町村誌の対象とした町村名は大区・小区制の明治八、九年段階のもので、江戸時代の村と明治二十二年の町村制の町村との、中間的な行政単位であった。
長野県は町村誌編集などのために、明治九年八月の合県直後に、庶務課に史誌編集係を置いた。その費用は大蔵省から支出された。係主任は、最初は高遠藩出身の長尾無墨、ついで北村方義があたった。両主任のもとに雇員として、主として絵図面を担当したのが、松代町出身の樋畑雪湖であった。かれは『長野町誌』の「善光寺境内の図」「長野市街図」等の製図を担当している。
町村誌の組み立ては、疆域(きょういき)・幅員・管轄(かんかつ)沿革・里程・地勢・地味・税地・飛地・字地・貢租・戸数・人数・牛・馬・船・車・山・川・清水・橋・森林・原野・牧場・鉱山・湖沼・道路・掲示場・堤塘(ていとう)・港・出崎・島・暗礁(あんしょう)・灯明台・灯明船・滝・温泉・冷泉・公園・墓・社・学校・町村会所・病院・電線・郵便所・製糸場・大工作場・古跡・名勝・物産・民業・風俗などで、町村により若干の相違がみられた。
長野町は、そのほかに中牛馬会社・内国通運会社・勧業場・県庁敷地・裁判所・警察署・電信分局・長野私立銀行・新聞社などが追加されていた。