明治十年代の文化的な活動として注目されるものに、松代青年会があった。松代青年会は同十六年(一八八三)一月七日、東京府下目黒村不動境内において創立総会を開いた。会の主な目的は松代城下に文化の花を開かせることであり、そのために在京の松代出身者が、切磋琢磨(せっさたくま)しようというものであった。当初は会則もなく、無形の会合であったが、翌十七年にいたって会員数も増加して会の規約が必要になり、同年五月に会員の横田秀雄・藤岡甲太郎・小松謙次郎が会則起草委員となって、七月に草案が成り、二八ヵ条の会則が衆議のうえ可決をみた。さらに十八年一月修正増補されて全五〇ヵ条の新規約ができ、会の基盤がつくられた。そして東京在住会員のほかに郷里会員(郷里部)の制もしいて、両者が共同して松代文化の向上に尽くす方途が確立した。同十八年一月現在の会員は、補助員まで含めて一〇〇人に達した。
明治二十年三月、機関誌の『松代青年会雑誌』の第一号が発行された。印刷人は小松謙次郎、編集人は横川秀雄であった。第一号は、財政的援助者としての旧藩主真田家等の補助会員三六人の名簿と本部会員三六人、郷里会員四二人、地方会員一一人の名簿が掲載されている。第一号の記事内容は、録事、論説、雑報(郷里通信)、雑録などで、とくに学術的論考を集めた論説に多くの紙数を割いていた。以後この雑誌は大正十年(一九二一)八三号まで続刊された。
松代青年会郷里部は、同会「記事録」によると発足まもない明治二十年十月十日に第一回の夜学会を開き、以後同二十二年二月二十九日までに延べ五九回おこなっている。夜学会は毎回の時間割を定め、通常は午後七時から開会し規則的におこなわれた。教授者の顔ぶれをみると英語科は八木与一郎・宮坂芳太郎・磯田敏三郎で、教授内容は万国史、リーダー甲乙、スペリング等であった。数学・算数科は宮坂芳太郎で、内容は方程式、幾何学円論、各自が選ぶものなどであった。漢学は関山藤三郎、寺内某で内容は論語集、文章規範、日本外史などであった。理科では進化論から動物・植物学など、というようにかなり広範におよぶものであった。
なお松代青年会入会者のなかには、小野みすゞのような女性会員もふくまれており、松代を中心とした地域の文化向上に寄与した。