皇典講究所の開設

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中央に大教院(だいきょういん)をつくり、府県単位に中教院をつくり、神官と僧侶を動員した国民教化は、神仏二道の協同に無理があり、明治八年(一八七五)四月には大教院が閉鎖され、地方の中小教院もすべて解散した。神道(しんとう)陣営は神官教導職(きょうどうしょく)の統一をはかるために中央に神道事務本局を、各府県に神道事務局(分局)を創設した。本局のなかに神道大教院を、地方の分局には中教院を、支局内には小教院を設置し、従来からの国民教化をになう教導職の研修と統率(とうそつ)をおこなった。このときから西宮神社に置かれていた長野中教院は「長野神道事務分局」と名称が改められた。

 翌明治九年には神社の境内地の坪数が制限され、県社は九〇〇坪、郷社(ごうしゃ)は五八〇坪(県社の三五パーセント減)、村社は三六〇坪(郷社の三六パーセント減)と定められ、神祠仏堂に対する取り締まりが強化された。路傍(ろぼう)の地蔵堂や辻堂の移転や、屋敷内の仏堂への一般人の参拝が明治九年十二月に教部省の達しで禁止された。

 神社寺院明細帳は江戸時代からつくられていたが、明治十二年(一八七九)には内務省が明細帳の書式を通達し、一定の方式で新たに「神社明細帳」が完備された。この明細帳には祭神・由緒(ゆいしょ)・社殿・境内地・境内神社数・氏子(うじこ)数が書きあげられた。また、この調査では氏子戸数が記載されている。境内神社は祭神・その由緒・建物、境内招魂社は由緒と建物、境内祖霊社は由緒・建物・共有人員の報告が求められ、神社のもつ宅地・山林・耕地の反別と評価金額の書きあげが命じられている。

 この明細帳の作成で、同一の由緒を唱えて本家争いで混乱があった神社は、いちおう整理された。たとえば、長野町の延喜式(えんぎしき)式内社の水内社(健御名方富命彦神別神社)は、神仏混合の時代には善光寺境内にあったといわれ、ほかにも自社が水内社であると主張する神社もあったが、善光寺境内の年神堂の祭神が延喜式の式内社であると認定され、このとき県社に列せられて現在地の長野市城山に鎮斎(ちんさい)された。前年に明治天皇が善光寺平をご覧になった野立所が置かれた場所であった。


写真64 皇典講究分所の建築費として各神社氏子たちが寄付をした (石渡区有)

 神道側の国民教化の本拠地として設立された神道事務局も、出雲(いずも)大社の祭神を神道事務局神殿に加えてお祭りするかどうかをめぐって紛糾(ふんきゅう)していた。天皇の裁定で神殿には宮中でお祭りする八神の天神地祇と賢所にお祭りする歴代皇霊(天皇の御霊)のみを祭ることになり、紛争はいちおうは落着した。つづいて神宮(伊勢神社など)と官国弊社に奉仕する神官は宮内省式部寮に、それ以外の神社の神官は内務省神社局に所属させ、すべての宗教者の祭教を分離し、神道事務局を閉鎖する案が浮上した。

 この状況を回避するため、神道陣営は明治十五年八月に皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)を設置したが、長野県では翌九月に神道事務局分局内に皇典講究所分局を設置する申請をおこない、県から許可された。開局は準備の関係で、翌十六年六月に開局届を長野県に提出した。最初、皇典講究所分局は神道事務局内に置かれたが、事務局と講究所の二枚看板で混乱が生じたので、同年七月に鶴賀村一九六番地(東鶴賀)に移転した。

 長野県は明治十六年六月、県社以下に仕える神官の試験を実施することを通達し、十七年二月までに終了することを指示した。準備が遅れ、更級・埴科・上水内・下水内・上高井・下高井六郡の試験は、十七年十一月中旬から十八年三月まで、東鶴賀の皇典講究所分局でおこなわれた。現長野市域の合格者(仮学証授与)は表59のとおりである。


表59 皇典講究所の仮学証授与者 (明治17年)

 明治十七年八月に神仏教導職が廃止され、明治政府の大プロジェクトであった宗教による国民教化は終わった。住職の任免などはこのときから正式には各宗の管長に委任された。神道も仏教も各宗ごとに一人の管長を置き、神道管長は教師(神官)の分限・称号、教師の等級を定めることが、教導職廃止の太政官(だじょうかん)布達で指令された。