寺院の動向

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火葬の普及により長野町に移住していた近隣地域からの出身者は、しだいに長野町の寺院の檀家(だんか)となっていった。この場合、本家の宗派とは違う寺の檀家になることも少なくなかった。土葬から遺骨の埋葬という葬法の変化は、都市化にそくした葬送様式となった。また、移住者のために寺院が建築されるという例もあった。虫倉山善松寺は鬼無里(きなさ)村の松巌寺の末寺として、明治四年(一八七一)に妻科(つましな)村に創建された。鬼無里村からの移住者のための寺という性格の寺院であった。

 善光寺は江戸時代に東叡山寛永寺に属する大勧進(だいかんじん)によって統制されていたが、明治十年には内務省の指令で両宗並立と裁定された。江戸時代の宝永(ほうえい)七年(一七一〇)以来大勧進に属していた「中衆(なかしゅ)」一四寺は、明治十年十二月に大本願に転属した。大勧進(天台宗)と大本願は対等となったが、江戸時代以来の慣行の変更という重大な内容を含んだことであり、大本願側からの要求に対し大勧進側からは既得権の割譲(かつじょう)であるとして、両寺のあいだで数度の訴訟が起こった。


写真65 善光寺大勧進


写真66 善光寺大本願

 明治十一年七月、松本裁判所長野支庁は「大勧進・大本願善光寺事務取扱権限」に対する大勧進の提訴に対し、八条からなる判決を出した。この判決で大本願側は、前立(まえだち)本尊をはじめとする寺宝の管理は大勧進でおこなうこと以外、ほぼ認められた。そして大本願上人は如来堂(本堂)で礼盤にあがって法義を執行することができるようになったが、これでも問題点は解決されなかった。明治十四年十月十三日に大勧進・大本願両寺は「仮条約」をとりかわしたが、宗法法義上の紛議は相変わらず継続した。大本願が本堂での浄土宗による法要関係の権利の確認を求めて、明治二十一年に訴訟をおこない、長野始審裁判所で明治二十二年六月に結審した。これをうけて大勧進によって東京控訴院に控訴され、同年十一月に控訴院判決がくだったが、さらに大審院に控訴され、明治二十四年五月二日に大審院判決が出た。二十四年六月には長野町の大火があり、大本願や仁王門およびほとんど全部の院坊が焼失した。善光寺は再建に奮闘し裁判は一応棚あげになった。落ち着きはとりもどしたが、両寺のあいだにはまだほかにも係争中の裁判もあり、大審院の判決でも釈然としないものが残り、紛争は収まらなかった。そこで両寺は裁判とは別に第三者をたて、その調停にしたがって従来からの紛争を終わらせることにし、二十四年十一月に調停によって解決をはかることに合意した。

 明治二十六年五月十八日、両寺は調停者に子爵(ししゃく)品川弥二郎を選び、品川の裁定以後はどのような新証拠が出てきてもその裁定にしたがうことを誓約し、裁判関係の書類一切をそろえて品川弥二郎にわたし、調停を依頼したのである。これに対し品川弥二郎は同年七月三十一日に仲裁をくだした。これにより明治初年からの善光寺本堂における浄土宗の法義と前立本尊管理に関する紛争が終結し、ほぼ今日(こんにち)の善光寺で大勧進・大本願が執(と)りおこなっている法義の姿が定まった。

 明治二十二年九月には、長野町康楽寺の住職海野浄峰ほか北信六郡六宗の僧侶代表によって、衆議院議員の被選挙権付与の建白が、元老院になされた。第一回総選挙を目前に、神官・僧侶の被選挙権を禁じた「法律第三条第十二項」改正を建白したのである。またこれよりさき、善光寺妻戸(妻戸衆)総代は明治十五年七月、貧民養育院設置を長野県に願いでている。善光寺周辺にはおびただしい貧民(とくに乞食(こじき)と呼ばれた人たち)が群がっていたのである。