御嶽(おんたけ)教は明治十五年(一八八二)八月「神道御嶽教会」独立を太政大臣三条実美に出願した。同年九月には認可になり、直轄御嶽総教会本講は「神道御嶽教会」と名乗ることになった。講の連合であったものが一つの宗教となったのである。北信地方にも行者を中心に御嶽教が組織されていった。
明治十六年には戸隠村・豊岡村・北郷村(長野市)の神道修成(しんとうしゅうせい)派の信徒五三〇戸が、中社の宮沢瑞穂の所有地に神社を建立する件を、神道修成派管長に上申している。申請者代表一一人は戸隠神社の中社と宝光社の神官であった。翌十七年一月には宝光社の越志(おし)氏(神官)の家に神道修成派戸隠本部教務支局が開設された。
伊勢の皇大神宮の大麻(たいま)や暦の頒布は、江戸時代には全国が地区割りされ受けもちの御師が決まっていた。明治維新になり、神宮は国家第一の神社として厚い保護を受け、いわば国家機関となり、江戸期とは違った状況が生まれた。大麻や暦の配布は地方の戸長などの行政機関が受けもった。しかし、教導職も廃止になり神宮と行政との一元的関係が解消された。
明治十九年に神宮教第十九教区上田本部が設置された。妻科神社神官の金刺(かねさし)安則は伊勢神宮参拝の神風講社(伊勢講)の世話役であった関係もあって、明治二十年三月に皇大神宮大麻・暦の頒布権を上田本部に申請し、歩合その他の契約をしている。金刺が割りあてられたのは、長野町・西長野町・南長野町・茂菅(もすげ)村・平柴(ひらしば)村・安茂里(あもり)村・小柴見村・中御所村・若里村・稲葉村であった。
安茂里救世会は明治十九年六月二日に開設され、設立会は長野町の立町耕雲庵(尼寺)を借りておこなわれた。例会は毎月の七日と定められ、第二回例会は長野町の十念寺を借りたが、曹洞宗支局の介入で開会が不可能になってしまった。救世会は定例会の会館を安茂里村の四五五番地に置いた。
安茂里村の救世会館の管理者は小松喜太郎で、僧侶ではないが徹道仁者と尊称されていた。救世会は、この世とあの世の両方の利益を実行するという目的を掲げ、正法の真理を明らかにすること、救世の実益をあげることを教えとして在来の仏教を批判し、同会のいう「愛国護法」の道を研究した。救世会は救世教衆仁者をもって組織すると決められている、在家の仏教の一つであった。明治二十一年八月には六間に三間の救世教会会館と四間(けん)に三間の事務所を金八〇〇円で建てることになった。建築の総裁候補者は柳原村の寺田六三郎、桜枝町の羽田定八、後町の宮沢清兵衛、旭町の岡本孝平の四人であった。いずれもそうそうたる人物で、長野町の各界で活動していた人びとであった。
明治三十二年には他の諸宗教と同様に長野県に届け出をしたが、届出書によれば名称は「安茂里救世教会」であり、会長、副会長、幹事、評議員で運営する組織であった。活動の実際は明らかでないが、慈善もおこなう団体であり、明治三十五年の東北凶作にさいしては五円の窮民(きゅうみん)救援金を送り、宮城県知事から感謝状を贈られている。