長野町と新しい町村の誕生

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明治二十一年(一八八八)四月十七日、市制・町村制が公布された。これにより市町村は自治体として確認され、条例・規則の制定権が与えられるとともに、市会・町村会が設置されることになった。反面、政府・府県・郡・市町村という行政の枠に組みこまれ、内務大臣や県・郡の強力な監督下に置かれることになった。長野県では、同年五月に郡長を招集して法律の大要と法律公布の趣旨を説明し、各郡長に町村の実情を調査させ意見書を上申させた。そのあと、県から町村制施行調査委員を派遣し、地理・人情の関係などを調査させた。さらに、郡長の上申と調査委員の復命を参考に原案をつくり、これを各関係町村会または長老会に諮問(しもん)させた。

 こうして県は、①将来市街の周辺になりそうな村は合併する、②地形・人情・資力を参考に住民の意向を重んずる、③独立の資力のない村は合併するが、戸数三〇〇戸以下でも資力のある村は独立させる、などの方針で町村造成調べを作成した。これに対して、旧村の約四割はなんらかの原案変更を望み同意しなかった。そこで、県は町村会の討議に対する意見を郡長にもとめ、第二次諮問案を作らせた。あわせて、県は県官を派遣して、関係町村の議員や戸長(こちょう)・長老などの有力者層を指導してまわった。


写真1 市制および町村制の裁可・公布の官報 (東寺尾区有)

 長野町では、それまでの長野町、南長野町、西長野町、鶴賀(つるが)町(七瀬を除く)、茂菅(もすげ)村の五ヵ町村で新しく長野町とすることになった。そこで、各町村の長老会などで話し合われ、長野町は、一町独立を願わず多数をもって合併することの諮問に賛成した。また、南長野町でも、全会一致で賛成している。逆に、鶴賀町では、多数で独立を主張した。その理由として、長野町とは人情風俗がおのずから違っておりいっしょにはならないことをあげている。さらに茂菅村は、南長野町のうち妻科組と合併したいと望んだ。そこで、郡長の意見などにより、県の段階で、長野町市街は県下で第一の町であり、市街地の体面を保つためにも長野・南長野・鶴賀は合併することが公益上妥当であるばかりでなく、訓令の趣旨に適しているとしている。また、西長野と茂菅については、長野・西長野・鶴賀とは形態が違って半農半商の土地だったり辺境の土地柄ではあるが、独立するには自治区としての資力に乏しいので、かえって合併したほうが有利であるとした。こうして、長野町ほか四ヵ町村は合併して長野町とするようにした。

 しかし、それでもなお反対する町村もあり、同年十一月には第三次諮問案が出された。真島村と川合村との合併の答申に対して、真島村会議員は連名でつぎのように上申書を送っている。その内容は、さきに町村制が公布されたことについて、真島村・川合村両村は合併について指定して諮問された。そのさい、合併が不利益になることを理由に答案書を上申した。十一月九日村上書記官が出張して、両村が合併すべきことを説明したことについて村内で再三協議したが、前回の答案どおり両村の合併は将来不利益と確信したので一村独立したいので上申する、といったものである。

 このような合併に対する不満を答申する町村は各地にあり、県の諮問案に全面賛成は四分の一にとどまった。しかし、政府が六月に出した強制的な合併命令もあって、最終的には県の命令合併にゆだねられた。

 翌二十二年一月に県は、「町村制実施の議につき内申」書を内務大臣松方正義あてに出した。そのなかで、三月上旬に各郡長を招集して、町村制実施後のことに関する一五におよぶ議題を協議すること、また、新町村吏員(りいん)選定のうえは、もっぱら自治分権の御趣旨にもとづくは当然ではあるが、創始のさいにつき取り扱い上まちまちになるおそれがあるので、よく吟味したうえで、遅くても実施後二ヵ月間に終わらせる予定であることなどを述べ、「町村制実施に関する訓令」「同諮問案」「同内訓」などあわせて一三の関係書類をそろえて、四月一日から実施を認めてほしいと内申している。これを受けて、三月十五日に政府から回答があり、「本年一月二十九日づけ甲町第二号内申町村分合ならびに来る四月一日より町村制施行の件聞き届く」との内務大臣名の許可指令が届いた。これを受けて三月十九日、「従来の町村を分合し、その区域別冊の通り来る四月一日より編制する。ただし旧町村名は大字とする」との「県令第拾八号」を出し実施に踏みきった。この結果、長野県は、従来の八九一町村が三九一町村に再編制された。

 合併について、当時の県地方課文書によると、「長野町の場合は、長野町・南長野町・西長野町・鶴賀町(七瀬を除く)・茂菅村、この五ヵ町村は地勢は平坦(へいたん)であり、昔、長野町地内に如来堂建立以来漸次(ぜんじ)市街の形状をなしてきた。また、明治四年県庁が置かれてからいっそう繁盛の地となり、人家は軒を連ねて同じように商業に従事している。そのため将来交通の不便もないし、民情風俗はあえて違うことなく、また、平素人民の折り合いも悪くない」としている。また、町役場の位置は、大字長野のうち立町となっていた。

 こうして、現長野市域では、長野町、南長野町、西長野町、鶴賀町、茂菅村が合併して長野町となったのをはじめとして、表1のように合併により新町村ができた。これを郡別でみると、旧上水内郡の七一ヵ町村が一五ヵ町村に合併され、七二会(なにあい)村だけが合併しなかった。更級郡では、三七ヵ村が一四ヵ村に合併され、四ヵ村が合併しなかった。埴科郡では、七ヵ村が合併したが、松代町ほか三ヵ村は合併しなかった。上高井郡では、川田村・牛島村の二ヵ村が合併して川田村になったが、綿内村・保科村の二ヵ村は合併していない。その結果、現長野市域に属する町村の戸数や人口は、上水内郡では合併した町村の戸数の割合が九四・四パーセント、人口では九三・七パーセントであり、ほとんどの町村が合併している。また、更級郡でも戸数で七六・七パーセント、人口で七六・九パーセントとかなりの村が合併している。いっぽう埴科郡では、戸数で二四・四パーセント、人口で二七・二パーセント、上高井郡では戸数で二六・四パーセント、人口で二七パーセントと少なかった。


表1 合併によりできた新町村


写真2 明治25年の長野町図(部分)

 合併の反対理由を大きく分けると、①長野鶴賀町のあげているように、他の地域とあまり関係がなく地形・人情・風俗が違っているため共同でおこなえない。②松代町にみられるように、そこに住む人や戸数が多く、独立してやっていくだけの資力もある。③また合併により町や村の行政区域が広くなってしまい、新しい役場の位置が遠くなってしまって不便だったり、水利権の関係や堤防の管理修繕費用の負担が増大するので財政的に負担が大きくなる。④茂菅村にみられるように、市街地と農村部では経済の基盤がことなり、共有財産にも違いがある、などである。したがって、合併はしたもののそこにいたるまでの論議で反対意見も多くあり、結果的に知事の命令での合併が多かったため、合併後の役場の位置などをめぐっての意見の対立が多く生じたりもした。


表2 合併しなかった町村