長野町の町会議員と町長選挙

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明治二十二年(一八八九)四月には、町村ごとに町村会議員の選挙がおこなわれた。有権者は二五歳以上という高い年齢の男子で戸主に限られ、納税額(財産)、居住期間などにいたるまで、きびしい条件をはめられた。そのため、選挙権を行使できたのは、ごく限られたものだけであった。この有権者は町村税額の多い順に並べ、有権者全員の納税額の半分にあたるまでの上位の高額納税者が一級選挙人、それ以下が二級選挙人と区別された。一級・二級それぞれの選挙人は議員の半数ずつを選挙することになっていた。

 議員数は、町村制第一一条により、人口一五〇〇人未満は八人、一五〇〇人以上五〇〇〇人未満は一二人、五〇〇〇人以上一万人未満は一八人、一万人以上二万人未満は二四人、二万人以上は三〇人と決められていた。現長野市域の町村は、大部分が一二人の議員であったが、長野町は三〇人であった。議員の任期は六ヵ年で、三年ごとに各級それぞれ半数ずつ改選されることになっていた。

 合併による長野町の選挙人は、総計一〇〇二人で、このうち一級選挙人はわずかに七一人(これは戸主の一・三パーセント、人口の〇・三パーセント)が町会議員の半数の一五人を選出し、残りの九三一人(戸主の一七・七パーセント)が町会議員一五人を選出することになっていた。七一人の一級選挙人数を字別にみると、字長野町四二人、字南長野町一八人、字西長野町一人、字鶴賀町一〇人であった。

 町村制によれば、まず町会議員の選挙をおこない、その議員によって町長を選出することになっていた。第一回の町会議員二級選挙は四月二十六日に一級選挙は同月二十八日に東之門町寛慶寺でおこなわれた。両日とも雨天であったが、選挙人は早朝から投票所へつめかけた。開票の結果、町会議員当選者は表3のようになった。表の・印の一六人は一級選挙人七一人のなかに入るものであり、ほかの一四人は二級選挙人であった。これは二級選挙人でも一級議員の候補になることができ、また、一級選挙人が二級議員の候補になることもできたからである。一級・二級どちらの選挙人の資格であっても、また選挙母体が一級・二級どちらの選挙であっても、議員としての活動に違いはなかった。


表3 長野町第一回町会議員当選者 (明治22年4月28日)

 二級当選者のうちA議員の妹が、同じ二級当選者B議員の配偶者であることを理由に、選挙人のうちの一部の町民が町村制第一五条の「父子兄弟たるの縁故ある者は同時に町会議員たることを得ず」により、二人のうち投票数の少ないAの当選無効を訴えた。しかし、この場合の縁故とは、「実父子実兄弟養父子養兄弟」のことで配偶者の関係は範囲外であるとして、この訴えは無効と裁決された。

 五月六日、長野町第一回の町会が東之門町寛慶寺において午前一一時に開会された。出席議員は全員の三〇人、元戸長の樋口兼利が臨席して開会の式をおこなった。式後抽せんによって議員の席順を決め、議長は議員中の年長者田中太助に決まった。樋口元戸長は番外席についた。

 議長は、町長および助役の選挙を(次会に)おこなうについて、選挙に先立ち町長・助役を有給吏員(りいん)にするか否(いな)かについて審議に付した。二四対五の多数をもって有給吏員とすることに決し、その条例はつぎのようであった。

 長野町条例第一号 有給町長および助役条例

  第一条 制第五六条により本町長を有給吏員とす

  第二条 制第五六条により、本町の助役を有給吏員とす

 当日の傍聴人(ぼうちょうにん)は二百余人にのぼった。閉会は午後四時で、閉会後、城山館において議員懇親会が盛大におこなわれた。

 六月三日、第二回の町会が開かれ町長と助役の選挙をおこなった。午後五時から長野学校の楼上に集まった議員は二八人であった。荻原政太・太田喜左衛門の二人が欠席した。先の会につづき、年長者の田中太助が議長となり、さきに議決された当町条例は内務大臣に認可されたとの報告をし、認可文(にんかぶん)を朗読した。ついで、町長・助役の選挙を先にするべきか、給料額を先に議論するかの提案がなされ、満場一致で、俸給定額を議論したあとで町長・助役を決めることとなり、ただちに議事に取りかかった。俸給額については三つの意見が出された。①町長の月給二五円、助役の月給一五円(一一番議員矢島吾左衛門)、②町長の月給二五円、助役の月給二〇円(一番議員荒井利右衛門)、③町長の月給三〇円、助役の月給一五円(一六番議員一由嘉兵衛)の三案で、これを議論したが、採決により町長二五円に二三人が賛成し、ついで助役一五円に二七人が賛成して議決された。

 つづいて書記が投票用紙を配付し、町長選挙がおこなわれた。開票の結果、樋口兼利が二六票を獲得し、荻原政太・藤沢長次郎に大差で勝ち、町長に当選した。つぎに助役の選挙がおこなわれ、一八票の原山太吉が矢島浦太郎(七票)や鷹野正雄・市川藤吉・永井益助をしのいで当選した。原山は、近来肺疾患(しっかん)の気があり、とうてい職に耐えられないと辞意を示したが、議員らのぜひにとの頼みに応じ受諾した。閉会は午後九時をまわっていた。こうして選出された町長と助役の認可の申請は、議長から郡長をへて県庁へ差しだすことになっていた。就任するときは、収入役ならびに附属員などの選任をすることとされていた。また、町村の状況により、町村条例の規定をもって町村長および助役を有給とすると町村会で議決したときは、議長から郡長および知事をへて内務大臣の裁可(さいか)を得てから選挙するものとする、となっていた。

 役場の建設では長野町の場合、従来からの長野町ほか四ヵ町村戸長役場(長野町のうち立町)を使用したため、とくにその必要はなかった。