現長野市域のその他の町村でも、明治二十二年(一八八九)四月には、長野町と同様、町村ごとに町村会議員の選挙がおこなわれた。選挙権を行使できる有権者は表4のようなきびしい条件によったため、ごく限られたものだけとなる。塩崎村をみると(表5)、全戸数は九六二戸で、村会議員数は町村制第一一条により二級六人、一級六人の計一二人であった。有権者は二級四七〇人、一級七七人の計五四七人で、これは全戸数の五七パーセントにすぎなかった。またこれを一級選挙に限ってみると、全戸数の八パーセントにすぎない七七人の一級選挙人が半数の六人の村会議員を選ぶことになり、二級選挙でも、全戸数の四八・九パーセントにあたる四七〇人の二級選挙人が残りの六人の議員を選出していたのである。
議員数は、現長野市域の町村では、前項の長野町の三〇人、松代町の一八人のほかは、人口規模からいずれも一二人であった。これらの議員の任期も六ヵ年で、三年ごとに各級半数ずつ改選された。なお、任期が四年に改正されたのは明治四十四年、級制による選挙の廃止が決められたのは大正十年(一九二一)であった(級制を撤廃して実施されたのは、大正十四年四月の選挙からであった)。
右の塩崎村の場合、明治二十二年四月二十一日に二級議員六人、二十二日に一級議員六人の選挙が康楽寺においておこなわれた。被選挙権は、一級・二級にかかわらず有権者全員にあった。そのため、二級議員選挙に一級選挙人が当選したり、一級議員選挙に二級選挙人が当選することもあった。二級議員選挙では投票者数二一三人で、有権者の四五パーセントという低い投票率であった。当選した六人のうち三人は、一級選挙人の資格をもつものであった。一票以上の得票者数は九四人におよび、そのうち一票のものが二四人もあった。これは、当時の選挙が立候補制でなかったため、有権者が選挙運動などに左右されることなく、自由な判断で投票した結果である。一級議員選挙では、投票者六四人で投票率八三パーセントであった。当選した六人のうち一人は二級選挙人の資格をもつものであった。得票数は投票者数の二倍以上あり、この選挙は連記による投票でおこなわれたのである。また、第六位の当選者は、「同点のものがいた場合は、年長者を当選とする」という法律が適用になった例であった。
村によっては、事前に候補者を調整するようになっていたようすがうかがえる。朝陽村は、北長池・南長池・西尾張部・北尾張部・石渡・南堀・北堀の各集落からなっていたが、議員の配置は三区は三人、一・二・四区は各二人、五・六・七区は各一人であった。公平を欠くということで、明治二十四年に二人の増員を議決し、国の許可を得た。一人を一・二区に置き、交互に選出するか、欠員を生じたときはつぎの区から出す。一人増の五・六・七区も同様の約束をした。ところが同二十九年の選挙では、五区へ候補者を出すように話し合いをしてあったのに約束違反がみられるとして、二人の議員が議長あてに建議書を提出している。
いずれにせよ、町村会議員の選挙では、女性や戸主以外の男性、小作人・無産者など多数の町村民は除外された存在であり、一部の資産家の意図する方向に町村政治を進めることも可能であった。
町村会では、町村長や助役の選出をおこなった。町村長の被選挙権は、その町村に居住して選挙権をもつ、満三〇歳以上の男子に限られていた。その任期は四年で、多くの町村長は経費節減などの理由で議員同様無給で、わずかな報酬を受ける程度であった。そのため選出された村長も助役も、ほとんどが村会議員であり、日常生活に不安のない資産家の有力者が多かった。
塩崎村では、村が大きく国道の要衝(ようしょう)にあたり、事務繁多であるという理由で、村長は有給とし年俸一五〇円、名誉職助役を二人置き報酬年額三〇円とする条例を可決し、申請手続きをとった(しかし、新聞報道によると、内務大臣の認可は得られなかった)。その後、明治二十六年三月で条例を廃止し、名誉職村長(無給)となり助役も一人となった。上水内郡安茂里村では、同二十四年名誉職村長が病気辞任ののち、有給の村長を置くことを決めている。また、埴科郡豊栄村(松代町)では名誉職の村長報酬月額六円、名誉職の助役報酬月額四円であった。こうして町村制施行当初に選ばれた現長野市域の町村長は表6のようであった。
そのほか町村会では、①予算・決算の議決ならびに承認、②町村税その他使用料や手数料の徴収などの賦課(ふか)方法の決定、③町村吏員(りいん)や委員の決定、④条例および規則の制定と改定などをおこなった。
朝陽村では明治二十四年二月、村内の学校の配置換えと役場位置の変更を村会で議決した。二十二年の町村制実施のさい、役場位置は北尾張部と指定された。また、小学区画ならびに校数等の改定で、朝陽村本校と指定された位置は村内で端のため不便であり、支校・派出所をふくめ三ヵ所の設立は経済的負担も大きかった。そこで、本校の位置を村内中央に移すこととし、本校を北尾張部に設け、屋島支校は派出所とし、石渡派出所は廃止すること、不要になる校舎一棟を役場事務室にして、役場の位置を北長池北端(布野堰のかたわら)に置くことを決めている。
塩崎村においても、役場位置に指定された篠ノ井は、一方にかたよるため不都合だとして、村の中央部に移転するよう村会で建議された。明治二十二年八月の村会で決議され、知事に上申書が提出された。翌二十三年五月、再び役場位置移転願いを、人民総代三人(村会議員)と村長の連名で知事に請願している。秋になって認可され、康楽寺へ仮移転ののち、二十四年一月に村会で新築を決め、五月に新役場庁舎が落成した。
これらの町村会の活動のために、各町村では事議細則を立案して運営にあたった。豊栄村では、①会は原則として九時開会、午後四時閉会する、②議員の席次は抽選で決める、③会議は第一次・二次・三次の合議をへて完結する、④決定は起立による過半数の同意で決する、⑤修正説の議題は原案に先立って可否を決定する、⑥細則に違反した議員には過怠(かたい)金二円以下を課する、など一七ヵ条を決めている。
このような議会の活動とともに、村の両輪になって働いたのが、役場事務である。役場では、議事・文書・産業・戸籍・学務・衛生・兵事・徴税・会計など町村民の生活にかかわる問題についての業務を推進した。しかし、その内容の大部分は、国・県・郡から委任されてくる国政事務であった。
布告の示達・戸籍・徴兵・就学奨励などは国政委任事務であったが、その費用は町村負担であった。このような七、八割を占める国政事務をあわせてとりおこなう役場の職員は、塩崎村では村長、助役二、収入役、書記二、書記補二、用務員一の計九人、大豆島村では村長、助役、収入役、書記二の計五人、朝陽村では村長、助役、収入役、書記四、用務員一の計八人、古里村では、村長、助役、収入役、書記二、用務員一の計六人というように、きわめて少人数で予算、決算、出納などの事務処理をして村政推進にあたっていた。書記の給与は、明治二十二年豊栄村の場合、四八歳の男性で月俸三円であった。