町村制の施行による町村の財政の推移を、資料の現存する朝陽村でみてみると、図1・2のようである。明治二十二年(一八八九)度の総額一四四五円余の財政規模は、明治二十八年度までは、大きな変動はみられない。三十年度になると、二十二年度の一・五倍、三十五年度には約三・七倍と急激に膨張している。この傾向は、全県的傾向と一致している。
歳出の中心は教育費と役場費であったが、財政的負担になっていくのは教育費であった。事務は繁忙であったが、村長や助役を名誉職とし報酬を出す程度にして少人数で推進し人件費を抑制したことや、役場施設・設備がととのうにつれ、毎年ほぼ一定額でおさまるようになったことから、役場費は四〇パーセント台から三〇パーセント台前半へ、やがて三十五年には二〇パーセントを切るほどに減少している。
いっぽう、教育費は三十年までは四〇パーセント台後半で推移し、三十五年になっても、三〇パーセント台前半程度にしか減少していない。教育費は、現在のような国庫補助がなく、教員給料をはじめ、教材備品費・消耗品費・営繕費などすべて町村の負担になっていた。各村とも子弟の育成に力を入れ、優秀な人材を教師に得ようとしていたため、なかでも、教員給料は図3でみるように、教育費の五〇~六〇パーセント台を占めていた。
そのほか土木費は、町村民の生活にかかわりの深い中小の河川の修復が町村の負担であったため、水害などがあるととたんに出費が増えることとなった。そのいっぽうで、生活河川のなかには、地元の各地区負担でおこなうようになっているところもあり、町村民はいずれかの形で土木事業の負担をしていた。
また衛生費も、洪水被害の発生や伝染病の集団発生から歳出増加の要因となっている。明治三十年度に増加しているのは、その一例である。負担金は、郡費や高等小学校の組合費である。
これらの事業をまかなう財源は、毎年ほぼ一定額の収入が見こめる授業料収入等による雑収入を除くと、その大半を町村税に依存していた。事業費が増える明治三十年ごろになると、増えた分だけ町村税に負う分が多くなり、同年には歳入の約八十五パーセントを占めるほどになっている。これは表7の古牧村の場合と似ている。
この町村税の内訳を表9でみると、古牧村の課税実態は、生産を上げる土地や営業売り上げにかかわる税のほか戸別割にも税を課されていた。戸別割は、二十二年度の長野町では一等六五円から二七等の三五銭まで、こまかい等級に分けられて課税されていた。地価割が古牧村の場合六〇パーセント近くを占め(表7)、歳入全体に対しても四九・二パーセントとなっており、土地をもつものが村税の多くを負担していたと考えられる。これは県下の傾向とはことなっている。県下の地価割の比率は二十年代中盤の二五パーセント前後から一〇パーセントの後半へと減少していく。いっぽう県下の戸別割は、町村制当初の四〇パーセント台を除くと、二十年代は三〇パーセント弱で推移し、三十年代になると三〇~四〇パーセント台で、やがて五〇パーセントに達している。国政委任事務に対する国庫交付金・県費補助金は微々(びび)たるものであった。
古牧村の村税率の推移をみると、町村制施行後数年のあいだに、営業税を除いて四〇~五〇パーセントの上昇がみられ、住民への負担が重くなっていった(表9)。
納税については滞納(たいのう)傾向があり、町村の行政にとっては、滞納の拡大を防ぎ歳入を確保するための滞納整理と、納税思想の浸透(しんとう)に力を入れなければならなかった。各村では条例によって、村税の徴収方法や滞納者への督促(とくそく)とその手数料の徴収を定めている。
埴科郡豊栄村(松代町)では、四・七・十・一月の四期に分けて徴収することや、営業者の売上金の届け出を翌年の一月三十日までと定めている。また、納期後二〇日以内の第一回督促後五日過ぎても納税しないときは、再度督促する。それでも納税しないときは、法律によって対処すると定めている。それらの督促に対し、一回目の督促を受けたものは手数料三銭、再度督促を受けたものはさらに五銭の追加と決め、さらに役場から一里(四キロメートル)以上離れた土地にいて督促を受けたものは、右の手数料のほか一里ごとに二銭の増(まし)手数料を徴収することになっている。
このような財政状況に対し、官有原野・山林の引き戻しや払い下げを要望する地元新聞の論調の影響もあって、県は、共有入会山(いりあいやま)・原野や借入官有地への植林を勧めて基本財産を増やすよう布達(ふたつ)している。それによってほとんどの町村が基本財産をもつようになっているが、内容的には、建物価格と土地価格に大部分を依存する傾向がつづいた。経費のかさむ教育費の財源確保のために、「学校基本財産」を創設して、学校林の設定や造成をおこない、植林する町村もあらわれたが、現長野市域では目立った動きとはならなかった。