区の設置と区長・区会議員の選出

438 ~ 443

明治二十二年(一八八九)四月、町村制の施行にともない、町村の区域が広いところや人口の密集しているところでは、区を設け区長およびその代理者を置くことが認められた。それらの区長や代理者は名誉職であり、町村会において公民で選挙権のあるもののなかから選挙することとされ、区会を設けてあるところでは、区会で選挙すると決められた(町村制第六四条)。また、その区で特別に財産を所有したり営造物を設けたりして、その区だけで修築・保存の費用を負担するときは、その区域に居住したり、滞在したり、土地家屋を所有したり、営業したりするものたちが、その費用を負担するものとされた(同九条)。さらに、そのための区会または区総会を設けてよいとされ、その会議では町村会の例を適用できるとされた(同一一四条)。

 埴科郡豊栄村(松代町)は、豊栄村条例第一号として「区長条例」を明治二十二年四月に定めた(『とよさか誌』)。条例は、①町村制第六四条により区長六人その代理者六人を置く、②それぞれの任期は四年とする、③区の分け方は上赤柴・下赤柴・関屋・桑根井・牧内・平林の六つとする、としている。さらに、この条例制定の理由として、「散在していた村々が合併して一村となったので区域が広くなった。その便宜上、区内において村長の事務を補助し自治の働きをすみやかにできることを願って設けた」と記している。

 長野町では、二十二年六月に町会で条例第二号として「区長条例」を定めた。それによると、区長と代理を置き、任期は四年、区の分け方はつぎの三一区となっている。

大字茂菅=①茂菅

大字西長野=②西長野

大字長野=③桜枝町、④狐(きつね)池、箱清水(公園地・山門下を除く)、⑥横沢町、⑦上下西之門町、⑧立町、⑨元善町(公園地・山門下寺院一般)、⑩東之門町、⑪伊勢町、⑫新町、⑬横大門、⑭岩石町、⑮横町、⑯東町、大門町、⑱西町、⑲栄町、⑳長門町・旭町、21後町(東後町)

大字南長野=22妻科、23県町、24諏訪町、25後町(西後町)、26新田、27石堂

大字鶴賀=28問御所、29権堂、30田町、31遊郭

 あとに述べる区会廃止ののちも、区長と代理者の選出はつづいている。

 更級郡塩崎村(篠ノ井)では、同年七月「塩崎村区長規則」を定めた。それによると、長谷から篠ノ井東まで一〇区とし区長を置き、任期は三年で、報酬は一人につき年二円五〇銭から三円(戸数五〇戸以上は三円、未満は二円五〇銭)をうけることになっている。同年八月には村会議員の投票によって、篠ノ井東区久保清助、平久保区田中永助、長谷区宮崎儀四郎ら一〇人の区長を決定した。その後、二十五年二月の村会で、区長の任期を二年に改め、一〇人のうち一年ごとに半数を改選することにした。区長代理者を置くと改正されたのは四十一年三月であった(『塩崎村誌』)。

 このように区長は、町村制施行による行政区域拡大のなかで、村役場と区内との連絡にあたり区内をとりまとめる役として設定されたが、地区の事情により任期・報酬にも差が出ており、選出のしかたにも町村により違いがみられた。区の運営については、区長および区会設置の区では区会議員が中心になっている。区で財産を所有しているところでは、区会を設けて区有財産の管理や区の運営にあたった。

 長野町では町村制第一一四条による区会条例が、明治二十三年五月に内務大臣の許可を得て施行されている。大字南長野・鶴賀・西長野の区会条例によれば、三条例とも第二条で区有財産および営造物に関する事件を裁定すること、第三条で議員は八人とすること、第四条で町会議員の被選挙権のあるもののなかから選挙すること、第五条で選挙方法については町会議員の選挙と同じように二級選挙でおこなうこと、第六条で議員の任期は六年とし、三年ごとに一級・二級議員それぞれの半数を改選することを決めている。この条例にしたがって同年八月一日、二日に区会議員二級選挙がおこなわれた。大字長野町では伊藤源左衛門ほか五人、大字鶴賀では北島喜一郎ほか三人、大字南長野町では宮埼亀太郎ほか三人、大字西長野町では松橋富五郎ほか三人、大字茂菅では柄澤重左衛門ほか二人が選出された。つづいて三日に一級選挙がおこなわれ、大字長野町では羽田定八ほか五人、大字鶴賀では安藤富吉ほか三人、大字南長野町では北澤啓兵衛ほか三人、大字西長野町では北澤文次郎ほか三人、大字茂菅では白澤定吉ほか二人が選出された。選出された区会議員のなかには、五月の選挙で長野町の町会議員に選ばれたものが何人かいる。それは、大字長野で臼井承、藤井平五郎ら五人、大字南長野で荻原政太ら三人、大字鶴賀で一由嘉兵衛、大字西長野で児玉正俊、大字茂菅で柄澤利藤太であった。これらの人びとは有力者として、町政ばかりでなく、地元地域でも区の運営にかかわることになった。長野町では町議会の活動が活発で、こうした区会の活動も、全町が一体となった行政が進むなかでその必要性はうすれ、市制施行前の明治二十九年十月、内閣総理大臣の許可を得て区会条例は廃止となった。

 これより先、埴科郡寺尾村(松代町)では、明治二十二年十二月村長和田浜治が、町村制第一一四条による区会の設置を進める「大室区会条例」を諮問している。それによると第二条で区会議員を八人とし、第三条で議長は議員中より互選(ごせん)によって決める、第四条で区会の議決すべき事項を①区有財産に関する協議、②区有財産に関する費用の分担金の徴収、③区有財産に関する経費・予算の支出および超過の支出の認定、と定めていた。この条例にもとづいて進められた大室区の財政のようすをまとめたのが、図4である。土地所有に応じて各戸から集めた費用が五五円余、貸付金の金利二四円余、水路積立金の金利三四円、合計一一三円余を得ている。これを使って、植林などの事業のほか、区民のための祭典費、墓地管理者給料、夜学補助金および負担する税にあてている。水路積立金金利は、収入をそのまま積み立てにまわして原資の増大をはかっている。


図4 大室区の財政 (明治22年)
(『区会大室議案綴』より作成)

 区長は、さきにみたように、町村制のもとでは町村長の補助機関として、町村と地区をつなぐ役割をもっていたが、いっぽうでは地区長としての性格をももっていた。したがって、共同労働、村祭り、水利慣行、地区協議費の徴収など地区内の諸活動を総括する役割をもっていた。

 朝陽村屋島では、明治二十二年十二月に千曲川堤防改良工事のための戸別割費用負担について、総額二〇〇円の拠出(きょしゅつ)をする等級割りを決めている(屋島区有文書)。地価一〇〇円につき一円二八銭ずつということで、九七人を一等から二五等までに等級分けをして、各等級ごとの負担額を決めている。それによると、一等一七円一三銭の本藤市蔵一戸、二等九円三〇銭の丸山多蔵一戸、三等八円三六銭の本藤鶴吉と本藤作蔵の二戸、以下二五等の四〇銭負担の五戸までに分けられている。この決定を推進しているのは一一人の協議委員と番外の四人である。この委員会の会長は区長の太田常治(等級では六等)であった。協議委員の顔ぶれは、等級では一等一、三等二、四等一、一〇等一、一二等二、一四等・一六等・二三等各一で、十一人中過半数の七人が上位の等級に属していた。これら七人のなかには、のちに区長、村会議員の要職についたものが六人おり、なかでも藤沢梅治のように区長をやったのち、明治三十七年から大正十年まで一期を除いて村会議員に当選し、大正十三年から昭和三年まで村長をつとめたもの、本藤鶴吉のように明治二十四年から大正三年まで連続して村会議員に当選したものなど、有力者ばかりであった。番外の四人のうち三人は等級の上位二〇人に入っており、一人は一四級であった。現職の村会議員は、協議委員と番外にそれぞれ一人ずつ加わっている。

 こうしてみると、区長はいっぽうでは町村の補助機関であり、他方では地区の長として、地区内の支配秩序を掌握してその頂点に立つ、二重の性格をもつものであった。