朝鮮への進出をねらっていた日清(にっしん)両国は、明治二十七年(一八九四)朝鮮における東学党の乱を契機に、朝鮮に出兵し衝突することになった。たび重なる衝突のすえ、日本は同年八月一日清に対して宣戦を布告した。各町村では政府の方針にしたがって、兵員の確保とともに兵員の家族援護の面からも、施策をおこなった。
これより前、明治二十二年には徴兵令の全面改正により、兵役免除を認めない国民皆兵制となった。兵員の徴集事務は軍部の事務系統のほかに、①県庁-警察署-分署-駐在所、②県庁-郡役所-役場の二ルートでおこなわれるようになった。このようななかでも、徴集延期願いを出すものが多く、二十三年には軍から厳重に審査するよう要請されている。実を上げるため、二十八年には国民兵役制の改正がおこなわれ、兵役は現役(陸軍三年・海軍四年)・予備役(陸軍四年・海軍三年)・後備兵役(五年)制の他に、補充兵役制を加えることとなった。日清戦争における県下からの従軍者数は、四〇〇〇人前後だったと推測されている。現長野市域からの従軍者数はさだかでないが、表10の勲章、叙勲・賜金に浴した人数に戦死者を加えると五〇〇人をこえる。犠牲者数も、県下では将校五人、兵士五三八人であったが、現長野市域では将校が松代町出身の富岡大尉・白川中尉の二人(うち病死一人)、兵士では三八人で合計四〇人であった。戦死者は三人であるのに、病死者がその一〇倍以上を占めた。うち三人はコレラと判明しているが、日清戦争における死亡者の八割以上はコレラ・マラリア・赤痢(せきり)など伝染性疾病によるものといわれているので、病死者のなかには、それらの死亡者がかなりいるものとみられる。
また、軍馬の徴発のため二十七年には馬籍調査がおこなわれ、牡馬五千二百余頭が県下から徴発された。七二会村では、二十七年十二月と二十八年一月の二回にわたり九三頭が徴発された。県立中学校長野支校までひいてきた馬が、一頭平均約四十円で買い上げられていった。これらの馬は名古屋へひいていかれ、付き添っていったものには旅費七円八三銭が渡されている。
兵役についているものの家族の援助活動は、二十一年に県が活動の準則を示し「兵役優待会」の名称に統一して指導している。上水内郡では「兵役者優待規約施行細則」「兵役優待同盟規約書」を決め、二十四年に一部を改正している。日清戦争が始まった二十七年、恤兵(じゅっぺい)献金活動の先頭に立ったのは町議会であった。
八月三十日長野町会は臨時会を開き、兵士優待を決議している。『信濃毎日新聞』(以下『信毎』と略称)は「町内の在郷兵が召集に応じて出発した場合には一人につき三円を贈与し、出軍のため家計に不都合があるときは、町費で補助する。また、委員を設け、ときどき留守宅を見舞うことを協議した」と報じている。九月、長野町では町長中村兵左衛門以下町会議員をふくむ三三人の連名で「長野恤兵会」設立の趣意書を出して、町民に事業への協力を呼びかけている。規定によると、①召集に応じたものには三円を贈る、②出征(しゅっせい)家族へは一ヵ年一五~五〇円を補助する、③兵士の帰郷時には五~二〇円の慰労金を贈る、④戦病死した兵士の家族へは祭祀(さいし)料として三〇円を贈る、⑤現役・召集兵士の子弟の小学校授業料は免除し、家族の病人は長野病院で無料で治療する、などが決められていた。当時、長野町では六六人が出征しており、そのため総額一〇〇〇円以上の義捐金(ぎえんきん)を集めようとするものであった。十月には、①出征兵士の家族へは一二~七二円を補助する、②補助におよばない家族へは慰問として一ヵ年五円を贈る、③義捐金の目標は二〇〇〇円とする、などの改正がなされた。出征兵士の戦死帰還のさいは、葬儀の知らせや会葬の礼を新聞に載せている。このような兵士の優待会は、「兵役優待会」の名称で二十九年に長沼村で結成されるなど各町村に広がっている。名称も埴科郡では「兵役優待会」、更級郡では「尚武会」となっている。
恤兵献金とは別に、軍事公債の募集や軍資金の献納も受けつけられた。県下では第一回七三万五六〇〇円、第二回九七万九二五〇円という予想以上の応募があった。松代町では表12にみられるように町をあげて取り組んでいる。軍事公債は一〇〇〇円応じた保全会社や佐藤房次郎以下五七人で一万九五〇円にのぼった。軍資金献納は海軍で一〇〇円の佐藤房次郎以下一四七人の五五八円五五銭、陸軍で三〇円の八田彦次郎以下一八二人の五三四円八二銭となり、また海嘯(かいしょう)義捐金に区長ら二九人から六〇円余が寄せられた。軍資金の献納者には軍から承認状が交付され、後年県知事から感状(写真7)があたえられている。
明治二十七年九月、黄海海戦の勝利が伝えられると、長野町では同月二十三日正午から城山館で戦勝大祝宴会が開かれた。これには、浅田知事をはじめ県の役人・郡長・代議士・県会議員・市民ら千余人が参加し、祝賀行事をおこなって広島へ移った大本営あてに祝電を打ち、つづいて祝宴を開いている。これより先、平壌の戦の勝利が伝えられたとき、大門町では各戸に国旗を掲げ大本営あてに祝電を打ち、午後は区長らが中心となって城山県社の前で祝宴を開いている。
これらの行政のはたらきや、士気を鼓舞(こぶ)する論陣を張ってきた新聞の影響もあって、庶民のなかにも国家意識が形成されていった。同年七月二十八日の朝鮮豊島付近での日本海軍の勝利が報じられたあとの師範学校生徒のようすを、『信毎』はつぎのように伝えている。
学校内に歓声が起こり男子部生徒一同は体操場に集まった。在韓兵士に同情しかつ戦勝を祝うために夜間行進をしようと非常ラッパを吹くと、全生徒は軍隊の服装をし武器を携(たずさ)えて集まり、ラッパの声も勇ましく県庁(当時はいまの信大構内にあった)を下り犀北館(さいほくかん)前から郵便局の前を通り城山に上がり君が代を演奏して十一時ころ学校に戻った。
開戦翌日の二十七年八月二日の紙上には、「上水内郡若槻村の恤兵献金」の見出しで、二〇円献金の花岡吉左衛門以下一円の献金にいたるまで献金額と七六人の氏名を掲載している。そのほか在韓兵士の慰労金、大門町南方の分として一五円の宮下太七郎をはじめとする四八人の名前と献金額をあげ、総額で一一五円の拠出がみられる(表11)。当時の米価からすると、多くの庶民が米一斗から三斗の代金に相当する金額を拠出している。また「朝鮮事件」への献金が、東町の医師・下駄屋・餅屋などからも寄せられている。八月七日の紙面では、各地の献金とあわせて長野の町民からの献金がつづいていること、松代町会議員が出征兵士の家族を扶助する方法について相談を始めたことや、松代町で一〇〇円を献納した人のことを載せている。新聞紙上からは、軍人慰労のために寄せられたものには、金銭のほか葛粉(くずこ)一〇〇袋の献納があったこと、献金に応じているのは長野町ほか柳原村・真島村などほとんどの町村におよんでいるようすがわかる。
恤兵献金の動きは町村へ広がるとともに、地区民がこぞって応じるようになった。二度も三度も応じるようにとの呼びかけもあって職場にも広がり、十月には各製糸工場が、競って従業員の拠出金をまとめて献金をするほどになった。若い工女もわずかな給金のなかから一〇銭・一五銭・二〇銭と拠出に応じている。日清戦争にかかわる献納金品を町村ごとにまとめると表13のようになる。長野町ではのちに、有志が東京からスライドを取り寄せ、西方寺や正法寺で幻灯会を開いて恤兵義捐(ぎえん)の輪を広げようとする例もあった。
このような物的な恤兵の動きは学校にもおよび、「芹田尋常高等小学校では、在韓兵士が夏の暑さに耐えているときであるから、ゆうゆう夏休みをとるのは申しわけないとして夏休みを取りやめた。が、休みは休みとして、児童を集めて戦いのようすを語り、修身の話をする位が適当であろう」と報じられている(『信毎』)。
また、在韓兵士の健康・国威伸張(こくいしんちょう)祈念会は、善光寺本堂では七月二十八日から八月三日まで、寛慶寺では五ヵ寺が合同で二日から三日間大施餓鬼会(せがきえ)の修行と護念経の読誦(どくじゅ)をし、綿内の正満寺では八ヵ寺合同で大法要を執行し義捐金を募集した。保科の清水(せいすい)寺住職も在韓兵士の健康を気づかい一日から一週間護摩(ごま)を焚(た)いて祈祷(きとう)し、真島村栄昌寺・共和村光林寺でも在韓兵士の健康祈祷会が開かれている。このように多方面にわたり戦争への協力姿勢が広がってきていた。
清国軍からの戦利品の展覧会もたびたび開かれ、大勢の見物人でにぎわい、庶民の戦意を高めている。戦争が終わると、戦利品は願い出により戦争記念や士気の鼓舞などのために、学校や神社・寺院に配られた。現長野市域の埴科郡・更級郡では、松代学校・祝神社・更級学校・北原学校・下氷鉋学校などがモーゼル銃・ゲベール銃・ウインチェスター銃・三角剣・六斤山砲榴弾(りゅうだん)・軍衣・軍袴(ぐんこ)などを八~九品ずつ受けとっている。
戦争が終わって兵士が復員すると、停車場まで出迎えて歓迎し祝賀会を開いた。兵士は軍隊手帳と帰郷令状をもち、記念として支給された軍服を着て帰郷した。長野町では二十八年七月十二日に、主催者・歓迎人・警備担当など数千人が凱旋(がいせん)兵士一同を迎え、一〇時の祝砲の煙火(はなび)を合図に大通りを城山館まで行進して式をおこない、その後大勧進御物見前で各町内がくりひろげる余興・山車(だし)・屋台などの出し物を見物した。一番の岩石町の「清おどり」をはじめ、西之門町・西町・茂菅・横沢町などから最終の長門町まで二二におよび、箱清水の山手で打ち上げる煙火もあって大勢の人出でにぎわった。二十九年五月三日の出迎えでは、ラッパを先頭に長野学校生徒・町役場首脳・町会議員・一般参列者の順に二列に隊を組み長野学校まで行進している。花で飾られた講堂で式がおこなわれ、軍人に対する勅語(ちょくご)の朗読のあと、兵士に慰労状と慰労金の贈呈、知事代理等のあいさつや祝辞、兵士総代のあいさつがあった。その後、善光寺や県社の参拝をし、戦病死軍人遺族を招いての慰霊祭をおこなっている。午後は、城山館で宴会を開き六百余人の出席があった。