郡の行政の進展につれ、郡役所と警察は、法規の運用面からも連携が必要となり、一郡区に一警察署の設置が求められるようになった。警察行政について、現長野市域の変遷をみると図5のようになっている。
明治二十年代のはじめ、長野町をふくむ上水内郡内は長野警察署の管轄(かんかつ)下にあり、埴科郡に属する松代地区は屋代警察署松代分署の管轄下にあった。更級郡には警察署はなく、現長野市域の地区は、埴科郡の屋代警察署と屋代警察署今井分署および田野口巡査派出所の管轄下にあった。同様に、上高井郡内も、中野警察署須坂分署が所轄する須坂町のほかは、隣の下高井郡の中野警察署の直接管轄下にあった。
同二十二年(一八八九)五月に須坂警察署、二十三年十一月に塩崎警察署が新設され、一郡区に一警察署の方針のもとに警察行政が進められるようになった。中津分署は、県会における人件費抑制(警察官の定数減)の議会決議などのため、一時廃止されたが、広範囲を掌握するのに不都合なため巡査派出所が設置され、やがて分署の復活となっている。
これより先、明治二十一年六月、各警察署では人口一五〇〇~三〇〇〇人の範囲を一人の外勤巡査の受持区として担当することとした。受持区の巡査在勤所には巡査が駐在し、受持区の警察業務をおこなう拠点となり、これはのちの巡査駐在所の前身となった。また、繁華街などには巡査派出所を設け、警邏(けいら)(見回って警戒する)や取り締まりをおこなった。長野警察署は本署管轄地には、六市街受持区・六在勤箇所と一三郷村受持区・八在勤箇所があった。屋代警察署松代分署には二市街受持区・二在勤箇所と二郷村受持区が、今井分署には一市街受持区・一在勤箇所と四郷村受持区があった。在勤箇所はやがて、町村役場の所在地に位置を定めるようになったが、なかには役場から離れたところに設置されたところも少なくなかった。
翌二十二年には、市街・郷村受持区、巡査在勤所の制度が廃止され、新たに巡査受持区と駐在所の位置が定められた。新しい管轄は七月から実施されたが、長野町では大字鶴賀町(裏田町・裏権堂町・遊郭・表権堂町・問御所・七瀬居町・川合新田)は四受持区、大字南長野町(新町・石堂町・末広町・上後町・下後町・諏訪町・県町)は二受持区、大字西長野町(往生地塩沢ほか)は二受持区、大字長野町(元善町・伊勢町・岩石町・大門町・長門町・桜枝町・箱清水ほか)は八受持区になった。周辺村々は芹田村が二受持区に分割されたほかは一村一受持区であった。上水内郡に属する現長野市域は二八の受持区に分けられていた。
派出所・駐在所をはじめ、警察署の敷地・建物の新設については、地元の寄付に負うところがあった。地元の人びとから集めた寄付金による強い誘致運動によるところもあり、不公平な扱いがされるとして県会で問題になったこともあった。
こうした警察行政組織は、明治二十一年五月警察本部(二十三年十月警察部と改称)内に警務、主計の二課と、新設の保安課の計三課が置かれたが、二十六年十月には警務課と保安課の二課となり、保安課では衛生業務も取り扱うようになった。この改定の結果、種痘(しゅとう)・検梅(梅毒検疹)・公私立病院・医師・薬剤師・鍼灸(しんきゅう)・売薬なども管轄するようになった。これは、コレラ・赤痢・腸チフスなどの伝染病の流行や性病の広がりなどに対する取り締まりのためであった。明治二十八年九月の、長野町のコレラの集団発生と死者がつづいたときの警察官のようすを、『信毎』はつぎのように報じている。
戸田警部長、肥田野署長はじめ警部・巡査出張し、中村町長以下役場職員・郡役所職員も出張し、吐瀉物(としゃぶつ)などの消毒を充分におこなった。後町・西之門の患者のある家は巡査が立って通行を遮断している。また、関係者の多くは善光寺本堂裏の御供(ごく)所を隔離室にあてて一時隔離する手はずになっている。
肥田野署長、服部警部以下巡査一同は、少しもねないで消毒・予防等に従事している。役場職員も同様であるが、巡査の不足と人足の欠乏にはほとほと困っている。
二十六年の警察処務細則の改定により警察部の仕事は、警務課が警察区画・廃置分合・職務規程・警察費・巡査配置など、保安課が銃砲・刀剣・火薬など爆発物、旅館・質屋・劇場などの営業取り締まり、変死・殺傷・盗難などの司法関係、賭博(とばく)・娼妓(しょうぎ)などの風俗関係と伝染病などの衛生業務であった。政党・政社・集会関係、新聞・雑誌など出版物関係、通貨犯罪、保安条例関係などの高等警察事務は、警察部長が直轄することになった。これによって、反政府勢力に対する監視は強くなり、県民の政党・結社への加入状況、集会・演説の内容、新聞購読状況などについても調べるようになり、県民生活の内部にまで監視がおよぶようになった。
司法関係では、明治二十六年五月に弁護士法が制定された。これによって、明治五年以来の代言人(だいげんにん)制度にかわって、弁護士制度が発足した。これより先、明治二十三年六月末の時点で長野県内には、長野・松本・上田の三地区に代言人の組合があり合計三〇人の会員がいた。長野地区には小島相陽を会長に九人の会員がいた。その後弁護士制度ができるまでに、県下には四七人の代言人がいた。制度発足直前の二十六年には、松本・上田・長野の三つの代言人組合に所属する代言人三六人によって「長野弁護士会」が結成され、六月に司法大臣の認可を得て発足した。さらに、三十年には日本弁護士協会が発足し、長野県からは代言人四七人のうち小島相陽ら二〇人が加入した。これら弁護士のなかには政治運動にかかわるものも多く、小島相陽は二十七年三月の第三回衆議院議員選挙で第一区(上水内・更級郡)から当選している。
代言人(弁護士)の活動の場となる裁判所は、二十三年の法律により、長野始審裁判所が長野地方裁判所となり、松本・上田・飯田に支部をもつようになった。また、治安裁判所は区裁判所と改称された。現長野市域はすべて、長野地方裁判所・長野区裁判所の管轄下となった。
いっぽう、囚人を収容する監獄(かんごく)を管理する県は、監獄費が大きな負担となっていた。そこで、国庫支弁の主張が高まり、三十年の通常県会で監獄費国庫支弁の建議書が可決された。しかし、実際に国の管轄に移されたのは、三十六年であった。ちなみに二十四年中に刑罰を受けたものは表14のようであり、窃盗(せっとう)・賭博(とばく)犯の多いことが目立っている。