明治二十二年(一八八九)二月十一日、大日本帝国憲法の発布と時を同じくして衆議院議員選挙法が公布された。翌二十三年七月一日が第一回の選挙日と定められたため、それへ向けての準備が進められていった。二十三年四月になると、県下の各町村は衆議院議員選挙人名簿の作成に着手した。有権者は、二五歳以上の男子で、二十二年四月以前から県内に本籍があるとともに居住していて、直接国税の地租または所得税を一五円以上納めるものとされ、さらに所得税の場合は三年以上の納入が必要であった。
現長野市域に属した四郡で、このようなきびしい制限を満たした有権者数は、明治二十三年六月現在、上水内郡九六一人、更級郡七七五人、上高井郡四一一人、埴科郡三六六人であった(表15)。上水内郡下の町村別有権者数をみると、多いほうから古牧村一二六人、芹田村八三人、朝陽村七〇人、長野町六五人となっており、逆に少ないところは、小田切村二人、浅川村一〇人、七二会村一二人などであった。選挙区は、第一区が上水内・更級郡、第二区が下水内・上高井・下高井郡、第三区が小県・埴科郡で、定員はいずれも一人の小選挙区であった。
県内の政党・政社は、国政選挙の実施に備えて選挙への取り組みを開始しているが、そのなかの一つに上田町で発刊されていた雑誌『愛民』が、明治二十二年に有権者に呼びかけておこなった「衆議院議員私選投票」があった。この結果は二十三年二月の誌上に発表された。総投票数は一三六七票で、各選挙区の最多得票者と次点者および両選挙区にまたがっているものの氏名が掲げられている。それによれば、第一区は滝沢助三郎・小坂善之助・島津忠貞、第二区は島津忠貞・中村三折、第三区は堀内賢郎・佐藤八郎右衛門であった。
第一回の総選挙は明治二十三年七月一日に実施されることになった。第一回ということもあって、第一区では自由党系から小坂善之助・滝沢助三郎・矢島浦太郎、無所属から小林営智の四人が立候補し、第二区では三人、第三区では七人と各選挙区とも多かった。各候補者は支持者を獲得するために選挙活動を繰りひろげたが、第一区の滝沢助三郎の場合、更級郡共和村や上水内郡古牧村などで聴衆を集めて政談演説会を開いている。七月一日、長野町では投票所となった長野学校で、町長樋口兼利に任命された五人の選挙立会人が見守るなかで投票が実施された。この日、一区から三区までの投票者が四一〇九人であったのに対して棄権者は一五三人で、投票率は九六・四パーセントであった(表15)。選挙の結果、第一区では小坂善之助、第二区では島津忠貞、第三区では堀内賢郎がそれぞれ当選した。いずれも自由党系であった(表16)。
衆議院議員の任期は四年であったが、明治二十四年十二月、民党が主張した軍艦製造費の削減(さくげん)等をふくむ予算の大幅削減案が可決されたため解散となり、翌二十五年二月に第二回総選挙が実施された。選挙の準備段階で、町村における有権者数が少なかったところでは、いくつかの町村を合わせて一ヵ所の投票所とすることができたので、郡役所では投票所を合併する町村を決め、県へ願いでて認可を受けている。いくつかの事例をあげると、上高井郡の場合、川田村が有権者三三人、保科村が同一三人だったので、両村を合わせて投票所を川田村に置き、管理者を川田村村長とした。また、埴科郡では、松代町有権者二四人、西条村同七人、豊栄村同四人、東条村同一〇人で、これを合わせて投票所を松代町に置き、管理者を松代町町長とした。投票は二月十五日におこなわれ、その投票箱は、第一区では翌十六日の午前九時から午後一時までのあいだに、上水内郡で二四個、更級郡で二三個、管理者・警官が付き添って郡役所へ届けられた。更級郡の投票箱は汽車で一三個、人力車で一〇個送られてきたが、人力車には計六人の警官が付き添ってきており、ものものしく警備されていた。開票は十七日の午前七時からで、投票箱の到着順に開けられている。
第二回総選挙の候補者は、第一区では無所属となっていた小坂善之助に対し、自由党では滝沢助三郎と小林営智とのあいだで調整がつかず両者が立候補した。第二区は自由党島津忠貞と立憲改進党丸山名政の対決となり、第三区は自由党から佐藤八郎右衛門・堀内賢郎、立憲改進党から南条吉左衛門が立候補した。選挙運動の一環として、政党や支持者は新聞に推薦・支持する候補者の広告を出したり、候補者自身が意見を表明したりしている。明治二十五年二月十三日の『信毎』に掲載された広告などを見ると、第一区の上水内郡有権者四五人が、実業活動を活発におこなっていることを理由に、小坂善之助を推薦している。滝沢助三郎に関しては、自由党総理板垣退助の候補者承認の広告や、第一区自由党員名で、滝沢がただ一人の自由党の候補者であることを訴えた「宣言」が出されている。第三区の自由党候補者の一人であった佐藤八郎右衛門は、政府側から「吏党・吏権主義」であるという批判が加えられたのに対して、これはまったくの中傷であり、自分は自由主義の立場から、国民の福利を増進するための政治をめざしていると表明した。限られた範囲の町村民に対してではあったが、新聞を媒介にしてこのような選挙活動が広がっていったのである。
この総選挙では、政府の意向を受けた県当局により、反政府の立場の立候補者に対して、さまざまな選挙干渉(かんしょう)がおこなわれた。『東山自由新聞』は、明治二十五年二月二十五日付けの社説「浅田長野県知事に与ふ」で、政府派の立候補者の擁立に動いたことや、反政府派の選挙活動への妨害について批判した。また、同年十二月の県会では、警察費の審議にさいし、議員から県官吏や警官による選挙権侵害の事実がなかったかどうかの質問が出された。
第二区で当選した丸山名政は、明治二十五年七月に選挙区の有権者にあて、帝国議会の法案審議の経過や自分の議会における活動を報告している。まず選挙干渉事件については、政府の責任を問う決議案が可決されたことを述べ、ついで予算案の軍艦建造費等を削減して可決したことに触れている。自身の活動については、民力休養のための地租軽減を内容とした地租条例改正案で、五厘減の原案提出に加わり、また、集会政社法案特別委員として法案の実現に尽力したことなどが主な内容であった。
明治二十六年十二月の衆議院解散により、第三回総選挙は翌二十七年三月におこなわれた。第一区では、小坂善之助にかわって自由党を脱党した小島相陽が無所属から立ち、自由党は引きつづき滝沢助三郎を候補者として選挙戦に臨んだ。結果は小島九七〇票、滝沢六一〇票で小島の当選となった。第一区自由党選挙事務所が出した滝沢助三郎へ投票した町村別の選挙人表では五九九人が記載されているが、上水内郡一五五人、更級郡四四四人であった。
この選挙戦のさなか明治二十七年二月十七日、第二区の上高井郡綿内村で自由党の演説会が開かれた。聴衆は七百余人で会場に入りきれないほどであった。応援演説のなかで改進党が攻撃されると、演説を妨害する激しいやじがとび、これをきっかけにして自由派と改進派の壮士のあいだで乱闘が起こり、負傷者が出ている。結局、改進派の壮士は会場から追いだされ、そのあとで応援に来ていた河野広中らの演説がおこなわれた。当時の選挙では、このように暴力・腕力による対立や、買収によって票を集めることが横行した。このほか第三区では、自由党系の埴科有志青年同盟が、二〇〇円余の資金と一七八人の「働士」と呼ばれる運動員を集めて、三区以外の一・二区へも応援のために彼らを派遣して、選挙運動を展開している。
総選挙後の明治二十七年四月、第一区では小坂善之助・小出八郎右衛門・飯島正治・小島相陽・前島元助・矢島浦太郎・田島広太らが中心になって、信濃実業同志会を結成し、選挙のための機関とすることを決定した。同年五月、衆議院で内閣弾劾(だんがい)上奏案が可決されると、政府は翌六月議会を解散した。九月におこなわれた第四回総選挙で、信濃実業同志会は小坂善之助を候補者とし、自由党の滝沢助三郎を破り当選させた。
第一区では衆議院議員選挙の実施以来、実業同志会系が議席を独占してきていたが、いずれも上水内郡の出身者であった。そこで、明治三十一年三月の第五回総選挙にさいし、更級郡の会員から次回の候補者は更級郡から選出されたい、との要望が出され、同派の候補者選定は難航した。条件つきの立候補に納得しなかった小坂善之助は出馬せず、反対派は更水同志会を結成して飯島正治を擁立し、自由党の支援もとりつけた。対立候補がなかったため、信任投票のような形で飯島が当選した。長野町を抱えた第一区では、実業同志会系の政治活動がさかんで、農村に地盤を置く自由党の勢力が強い他の選挙区とは状況が異なっていた。なお、第五回の総選挙の実施にあたって、内務大臣から府県知事・警部長にあてて、選挙運動に関して、法に触れ罪を犯すものがあるので、厳正に取り締まるよう訓示が出されている。
衆議院の設置と同時に貴族院も明治二十三年に設けられた。貴族院議員のなかの多額納税者議員は、県内の直接国税の多額納税者で、満三〇歳以上の男子一五人の互選によって選ばれた。同年四月の調査によれば現長野市域では、更級郡中津村の田島伝蔵、同郡川柳村の田中周之助の二人がこれに該当した。同年六月十日、長野県庁での選挙会で、下高井郡の山田荘左衛門が七票を獲得して当選した。