町村民の政治活動と県会議員の選挙

464 ~ 471

明治二十年(一八八七)十月、地租軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回(ばんかい)を内容とした、高知県代表による三大事件建白書の元老院への提出と、後藤象二郎が自由党・改進党の旧幹部を集めておこなった懇親会を契機にして、民権派の藩閥政府に対する反対の動きは、大同団結運動となって全国へ拡大していった。

 この大同団結運動は長野県へも波及し、明治二十一年春以降、有志の結合体が各地で結成されていった。上・下水内郡、上・下高井郡、更級郡を基盤にした北信民会は、長野町鶴賀の秋葉神社前に会場を構え、滝沢助三郎・矢島浦太郎・鈴木治三郎・中村三折らが中心であった。埴科郡には埴科倶楽部(くらぶ)があり、粟佐(あわさ)村(更埴市)に会場が置かれ、会員は四〇〇人余であった。翌二十二年には、北信民会から分かれた更級倶楽部が今里村の宮下一清、今井村の町田礼助らによって結成され、会場は中津村に置かれていた。

 国会開設、衆議院議員総選挙の実施をにらみながら、県内の各団体の結びつきも進んだ。明治二十一年十一月には、信濃政社が小県郡上田町に設置され、社員が実行につとめる事項として、①責任内閣制のもとでの議会政治の実施、②対等の条約改正、③租税の軽減、④言論・出版・集会の自由拡張などを掲げていた。創立委員には現長野市域から、鎌原仲次郎・滝沢助三郎・宮下一清・矢島浦太郎らが参加していた。いっぽう、同じころ長野町に信濃義会が設置されたが、こちらは県会議員が中心で、島津忠貞・小島相陽・小林営智・佐藤八郎右衛門らが加わっていた。

 明治二十二年一月七日、北信民会は長野町の城山館で政談演説会を開催した。弁士は小池平一郎らで、「私選国会議員」「信濃義会と信濃政社」などの演題で論じていた。当日の参会者は三〇〇人余で、婦人の傍聴は無料であった。なお、その夜は来長していた後藤象二郎を囲んで有志による懇親会も開かれて、城山館の周辺はたいへんな混雑ぶりであったという。同一月十三日には、やはり城山館で小木曽庄吉が主催した改進党の演説会が、一〇〇〇人余の聴衆を集めて催されている。

 明治二十二年四月、埴科倶楽部・更級倶楽部・高井友誼(ゆうぎ)会・信濃義会など、県下の各団体から選出された委員が長野町の城山館に集まり、県下に分立する諸団体の統合について協議会を開いた。ここで全県を網羅する組織である信濃倶楽部の創立を決定した。仮規約では、本部を長野町に、支部を各郡に置くことが決められた。しかし、全国の大同団結運動の内部では、組織化をめぐる政社派と非政社派による対立が起き、同年五月には政社派の大同倶楽部と非政社派の大同協和会に分裂した。信濃倶楽部内の非政社派の島津・小島・小池・宮下・矢島・水品平右衛門らが北信民会と結んで、同年八月信濃協和会を設立したことにより、信濃倶楽部も両派に分裂した。非政社派は八月二十三日に大井憲太郎を招いて、長野町城山館で信濃協和会の発会式ならびに演説会を開いた。聴衆は三〇〇〇人余で城山館はじまって以来の盛会であったことが新聞に報じられている。


写真11 演説会や大会・会議などに使われた城山館
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 いっぽう、信濃倶楽部も宮城・山形・新潟など東北・北陸諸県から参加者を得て、明治二十二年八月に長野町で開いた第三回東北一五州大懇親会で、政社派の大同倶楽部への参加を決定した。大同倶楽部の通信所は県下に九ヵ所あり、長野町には表権堂と信濃倶楽部の所在地の二ヵ所に置かれた。また、更級郡東福寺村の吉沢繁松、同郡川柳(せんりゅう)村の西沢喜代作は特別通信を担当した。

 明治二十二年十二月、上水内郡柳原村の有志は信濃協和会の弁士を招き、「議員選挙について」「議院の価値」などの演題で政談演説会を開催した。数日後には同郡若槻村でも、信濃協和会員による政談演説会が催された。両会とも満員で、とくに若槻村の場合は婦人の姿が多数見受けられたという。また、二十三年二月五日の『信毎』には、同郡長沼村内では大同団結派の水内倶楽部員が多数を占め、二月実施の県会議員選挙では同派から議員を選出しようと奔走している、との通信が寄せられている。総選挙や県議選をめざして、各地の町村民のあいだにも政治への関心がしだいに高まっていった。

 このような時期に、県下の世論を二分する分県・移庁問題が起こった。明治二十二年九月、東筑摩郡選出の県会議員小里頼永、下伊那郡選出の同松尾千振、南安曇郡選出の同森本省一郎の三人は、東筑摩郡ほか六郡一四〇ヵ村の有志人民総代として、元老院へ分県の建白書を提出した。分県を要望する理由として、①地形上、南北に分断されていること、②人情の相違が大きく、県会議員のあいだでも南北の意見対立が多いこと、③県庁が長野町にあって北へ偏っているため、南部人民にとっていちじるしく不便であること、④県の事業は県庁に近い地域が恩恵を受けやすいこと、⑤南北の地価に差があり、平均化は簡単にできないこと、があげられていた。この建白を受けた元老院では筑摩県再置を可決した。

 これに対して、北信地方の非分県派は北信選出の県会議員を中心に反対運動を展開した。明治二十三年五月には、長野町の城山館で分県反対大会を開いた。大会の座長には長野町長の樋口兼利がなり、島津忠貞・小島相陽・荻原政太・藤井平五郎らが幹事をつとめた。同年七月、内務省は県知事内海忠勝への通達で、府県の区画は容易に改めるものではないとして、分県を認めなかった。同時に内務省は県当局に対して、この件に関して人心を動揺させることのないよう十分注意することを求めていた。

 分県が認められなかったため、明治二十三年十二月の県会で、分県派の中南信の議員ら一三人は、県庁移転の建議書を提出した。建議書をいますぐ採決するかどうかで賛成派と反対派のあいだで論議が戦わされたが、採決の結果両案とも賛成少数で否決され、けっきょく明治二十四年度の地方税予算の審議が終了してから、建議書の採否を決することになった。しかし、移庁建議書の県会への提出を知った長野町民のなかには、賛成派の県会議員が通行するさいに瓦礫(がれき)を投げて往来をさえぎるなどの不穏(ふおん)な動きがあり、警察が警戒するなかで、二十三年十二月五日に移庁賛成の県会議員が暴行され、長野公立病院へ入院する事件が起きた。身の危険を感じた中南信の県会議員一九人は、このままではどんな事態になるか予測ができないとし、県会議場の上田町への移転を申しでて、県が認可しなかったにもかかわらず、上田町へ移ってしまった。

 同年十二月六日、移庁反対の東北信の県会議員は負傷入院中の県会議員も参加させ、過半数となる二三人の出席により県会を開き、予算案をふくめたすべての議案を議了し、さらに移庁建議書は提出議員が全員欠席していることから、審議しないことに決定した。その後、この県会決議を不法として、中南信議員から取り消しの要求書が提出されたが、県ではこれを認めなかった。二十四年五月、松本町では県政批判の政談演説会が開催され、演説会終了後、参加者が警察署長宅と東筑摩郡長宅を襲うという「松本騒擾(そうじょう)事件」が引き起こされている。

 この間にも地方制度の整備が進められ、明治二十二年四月町村制が施行され、つづいて同二十四年四月には郡制が、同年七月には府県制にもとづく長野県制がそれぞれ施行された。なお、この県制施行は全国最初のものであった。県会議員の定数は郡別の人口により定められ、県全体で三八人となった。現長野市域の各郡では上水内郡四人、更級郡二人、埴科郡二人、上高井郡一人とされた。なお、同三十年四月に長野市が発足したことにより、同年七月の改選期から長野市一人、上水内郡三人と定数が変更になった。県会議員選挙は、郡ごとに郡長が会長となった選挙会で、郡会議員・郡参事会員の投票によって選出される間接選挙制であった。被選挙権は、町村の公民で選挙権を有し、その府県で一年以前より直接国税一〇円以上納めるものとされた。議員の任期は四年で、二年ごとに半数が改選されることになっていた。

 府県制施行後の最初の県会議員選挙は、明治二十四年七月に実施された。上水内郡では、笠井文之助・小島相陽・鈴木長兵衛・田島広太の四人が当選した。更級郡では、宮下一清が一三票で当選し、小林営智と飯島正治が一一票ずつの同点であったが、規定により年長者の小林が当選した。埴科郡では、小林喜曽平・鎌原仲次郎の二人がそれぞれ当選した。また、上高井郡では、郡会議員・郡参事会員一八人のうち二人欠席で、一六人の投票により、高橋駒之助が一三票を獲得して当選した(表17)。四郡の当選者の職業は、農業六人、代言人二人、庶(しょ)業一人であった。このときの更級郡の選挙会は午前中から開かれていたが、両派の連合談判のため投票が遅れて、午後二時からおこなわれた、と新聞は報じている。また、同三十年七月の上水内郡の選挙では、かねて譲(ゆず)り合いがついていたので、競争もなくいたって平穏(へいおん)な投票であった、と報道されていて、間接選挙のため密室での取り引きがおこなわれやすかったことがうかがわれる。


表17 県会議員一覧 (明治24年7月~同30年7月)

 明治二十五年十二月、議員の半数改選のため任期二年の議員を抽選で選んだ。県会議員全体からの抽選であったため、上水内郡の小島相陽・田島広太、更級郡の宮下一清・小林営智、埴科郡の鎌原仲次郎・小林喜曽平の六人が二年議員となっている。同二十九年十一月二十日付けの『信毎』は、県会議員の議会における発言回数の一覧を掲載している。全体の発言回数は延べ一四六回で、現長野市域の県会議員は、上水内郡の田島広太、更級郡の宮下一清がともに六回で一番多く、なかには発言を一回もしていないという議員も一人いた。

 明治二十六年四月、集会政社法の改正により、政社間の通信連絡が自由にできるようになった。これにより自由党は同年八月、改進党は同年十二月にそれぞれ信濃支部を設置し、事務所はともに上田町に置かれた。二十八年九月上田警察署の調査によれば、上水内・更級・埴科・上高井四郡の両党の党員数は、自由党七九九人、改進党一五一人であった。二十三年の自由党の党員数は三六〇人であったので、五年間で二倍余の増加であった。三十年の党派別の県会議員数は、自由党一九人、改進党の後身の進歩党八人、小坂善之助を中心にして長野市に基盤を置く信濃実業同志会系の実業派四人、無所属八人となっていた。当時の各郡市の党派別の勢力状況は、長野市・上水内郡は実業派が圧倒的に強く、その力は更級・上高井郡へも波及しつつあった。埴科郡は自由党の勢力下に置かれ、上高井郡は自由・進歩両党の勢力が相半ばしていた。

 明治三十一年六月、自由党と進歩党が合同して成立した憲政党は、同年十月内部対立で旧自由党の憲政党と旧進歩党の憲政本党とに分裂した。信濃実業同志会は、翌三十二年三月長野市で協議会を開催した。小坂善之助はそのあいさつのなかで、政党政治の時代となった現在、政党の力で憲政の実現をはからなければならない。地方の小団体に固執して、排他的に行動するのは得策でないと述べている。これにつづいておこなわれた協議の結果、全会一致で会を解散し、憲政党へ加入することを決定した。中央政界の動向に呼応しながら、長野市域の政治状況も変化していったのである。


写真12 明治36年ごろの県会議事堂