郡制施行と郡行政

471 ~ 474

明治二十三年(一八九〇)五月十七日、郡制が公布された。長野県は、翌二十四年四月一日から施行したが、これは愛知県・青森県など他の八県とともに、全国で最初の郡制施行であった。郡制により郡は、県と町村のあいだに位置する自治体となり、これまで郡長は行政機関の長だけであったが、以後は自治体の長も兼ねることになった。また郡には、議決機関としての郡会のほかに、郡参事会が置かれた。

 郡制が公布になると、町村民のなかから、郡界の変更を求める動きが出てきた。明治二十三年上水内郡安茂里村は、三人の人民総代をたてて、郡界変更の建議書を県知事に提出した。安茂里村は、戸数六五九戸、人口三三三四人であるが、耕地は七〇一町歩余と狭い。そのうえ鉄道が開通し、大町街道の開通も間近で、さらに耕地がけずられた。更級郡笹井村四ッ屋および青木島村との郡界は、犀川を越えてその北側にある。自村の狭い耕地を水害から守るためには、この北側にある更級郡の土地を使用して、犀川に沿って強固な堤防を築く必要がある。そのためにはぜひ郡界を変更してほしい、というものであった。県では他郡からも提出されていた郡界変更の請願もふくめて、いっさいを認めず郡制施行に踏み切ったのである。


写真13 埴科郡役所 (『埴科郡会沿革史』より)

 郡制施行時の現長野市域の四郡の郡長は、上水内郡が森田斐雄(あやお)(士族・小県郡上田町出身)、更級郡が関口友愛(ゆうあい)(同・東筑摩郡北深志町出身)、埴科郡が師岡政挙(同・小県郡上田町出身)、上高井郡が清須勝祥(かつよし)(同・上高井郡須坂町)であった。郡長は、郡会と郡参事会の議長となり、郡会・郡参事会の議決がその権限を超えているときは、議決の執行を停止することができ、また、郡長が提出した議案が否決された場合は、県知事の指揮を受けて、原案を執行することができるなどの強い権限をもっていた。

 郡役所は、第一課と第二課に分かれて事務を担当し、第一課は議事・農商・土木・兵事・学務・衛生などを、第二課は収税・会計を分掌した。さらに県から郡長へ事務処理を委任する事項も数多くあった。その主なものは、地方税不納者処分、徴兵の取り調べ、学校資金、地方税から支出される道路・堤防の修繕などであった。

 郡長のもとにあってこのような仕事を担当したのは、郡書記と郡雇(やと)いの吏員(りいん)であった。県によって決められた郡書記の定員は上水内郡が九人で一番多く、更級郡七人、埴科郡と上高井郡が五人であった(表18)。しかし、実際の郡書記数は、上水内郡の場合でも六人だけで、定員に満ちていたのは埴科郡のみで、更級郡・上高井郡も定員以下であった。郡雇いは、これも上水内郡が一番多く一八人で、埴科郡が七人、更級郡・上高井郡がともに六人となっていた。


表18 郡書記定員・俸給額と郡吏員数調べ

 郡の行政事務は郡役所で執(と)られていたが、明治二十八年三月末の調べでは四郡とも借家の状態で、所有していたのは、倉庫・控え所などにすぎなかった。同三十年になって、更級郡が二〇〇〇坪余の土地と二四〇坪の建物を所有するようになり、上高井郡には公債証書七〇〇円があったが、他の二郡には主だった郡有財産はなかった。

 この時期に郡が取り組んだ事業をみると、上水内郡では、明治二十四年十二月郡会の通常会で主要里道改修の建議が提出されたので、郡長はこれに関する調査報告書を同二十六年二月の通常会へ提出した。主要里道一三路線について、現状と改修費の概算を取り調べたものである。長野町から小田切村・柵(しがらみ)村・鬼無里村をへて北安曇郡へ通じる鬼無里街道は、現在の幅員七尺を九尺~一二尺(一尺は三〇・三センチメートル)の範囲で拡幅する計画で、工費の概算は二万四〇〇〇円余であった。三十年十二月には、森林造成のために一回に苗一〇〇〇本以上植林したものに、苗木の費用に限りその八割以上の補助金を交付するという植林奨励規則を定めた。また、三十年から三十三年にかけて、小学校教員講習会を開催している。三十年の場合、八月一日から十四日まで長野師範学校を会場にして実施した。費用は一二五円であったが、郡内の小学校教員の欠乏(けつぼう)を補い、無資格教員をなくすためのものであった。

 更級郡では明治二十六年三月、犀川・千曲川に架(か)けられている私設の橋を、県営に移管することを求めた建議書を県知事へ提出した。洪水が起これば流失してしまい、また、郡民が通行するたびに橋銭を払わなくてはならない私設の橋は、郡下の産業の発展や郡民の福利をはかるうえで大きな障害である、というのがその理由であった。上高井郡では、郡制施行以前に決められていた主要道路の改良計画にもとづき、工事費の郡費負担の割合を決定し着手している。

 このように郡の事業が進みだすと、郡民の意識のなかにしだいに同一の自治体としての一体感が生みだされてきた。それが郡長の異動にさいして自郡出身の郡長を熱望する動きの背景の一つとなった。また、郡制出発当初から郡長試験により登用される官僚郡長の弊害が指摘されており、より完全な自治体を求めて、郡長公選が繰り返し主張されることにもつながっていったのである。