明治二十四年(一八九一)四月一日、長野県は郡制を施行し、各郡には郡会と郡参事会が設置された。郡会は、町村会議員が選挙する議員と、その郡内で町村税の賦課を受ける所有地の地価額が一万円以上の大地主から選ばれる議員で構成されていた。議員定数は、町村会選出議員が上限二〇人で、大地主選出議員は町村会選出議員の三分の一となっていた。被選挙権は、郡内の町村公民で町村会の選挙権所有者と、大地主の選挙に参加するものにあたえられた。議員の任期は、町村会からの選出者は六年で、三年ごとに半数が、大地主からの選出者は三年ごとに全員がそれぞれ改選されることになっていた。
明治二十四年四月、郡会議員選挙が実施された。二一ヵ町村以上ある郡では、人口により複数の町村を合わせた選挙組合をつくり選挙をおこなった。上水内郡では、長野町・芹田村・七二会村が一組合で一人、芋井村・戸隠村・柵村は三村で二人の議員を選出し、あとは二町村で一人の議員を選出している。更級郡も同様に選挙組合をつくったが、埴科郡・上高井郡は二〇ヵ町村に達していなかったので、各町村から一人ずつの選出となった。各郡の町村会からの選出議員は、上水内郡・更級郡が二〇人、埴科郡一七人、上高井郡一五人であった。大地主は、どの郡も選挙権所有者が町村会選出議員の三分の一に満たず、全員が選挙なしで郡会議員となった。議員数は上水内郡・埴科郡が各二人、上高井郡が三人、更級郡が六人であった。
明治二十四年五月、最初の郡会が開催された。郡制により郡会には、郡の歳入出予算、決算報告、郡有財産の管理などに関し、議決する権限があり、また、郡内の公益に関する事項について、郡長や県知事に建議することができた。上水内郡会は、五月二十六日の臨時会で、議長代理者の選挙、名誉職参事会員および補充員の選挙をおこない、傍聴人取締規則・議事規則を議決した(表19)。
郡参事会は、郡長と四人の名誉職参事会員とで構成されていた。四人のうち三人は郡会議員の互選で選ばれ、残りの一人は郡内町村の公民または郡会議員のなかから県知事が選任した。この郡参事会は、郡会が議決できる事項のなかから、委任を受けたものの議決、郡会へ提案される議案の事前審査、郡の出納検査など大きな権限があった。明治二十四年の上水内郡会は、臨時会一回、通常会二回を開き、開会日数は六日間であった。これに対して郡参事会は六回で日数は七日間であった。郡会に先立って二十四年度・二十五年度の予算審査をおこなっている。
郡の歳入出予算の審議・議決は郡会の重要な権限であったが、郡には課税権がなく、その点からも自治体として不十分な側面をもっていた。したがって歳入の大部分を町村に対する分賦金でまかなっていた。町村が納入する地租・所得税・地方税の合計に一定の乗率で金額を決定した。明治二十四年度の上水内郡では最多が長野町の九二円余、最少が浅川村の六円余で、全体では五四七円余であった。同二十九年度の同項目は、一五八〇円余で約一千円の増加となっていた(表20)。
歳出については、会議費を除いて郡により費目別の支出額にかなりの差があった。郡吏員費は、小学校令の改正により、明治二十五年四月から設置された郡視学費である。上水内郡は同年の設置となり、四一六円余の予算を計上したが、資力の弱い郡では、すぐ設置するというわけにはいかなかった。上高井郡では、二十五年度に郡視学費は否決となり、翌二十六年度になって郡視学俸給旅費規則が可決され、郡視学が設置された。更級郡では、二十五年三月の第二回通常会に提案されたが、不必要論や負担に耐えられないという意見が強く否決となった。その事由書を県へ具申するさい、郡長が民費多端の折、二十五年度に限り設置を見送るとしたのに対して、郡教育の進度からみて、教育事務を郡視学に監督させる必要は認めないとの意見が郡会のなかにあり、けっきょく郡視学を置く必要を認めない、という内容になった。二十九年度まで多数による否決がつづき、三十年二月にようやく可決となり、三十年度から設置となった。埴科郡はさらに遅れて三十一年度からであった。この郡視学費は、地方官官制および小学校令の改正により、三十三年度から県費の支出となった。
郡会の出発当初、勧業費が予算に計上されることはなかった。しかし、明治二十七年に上水内郡・更級郡が勧業会に関する規則を定め、会が講演・品評会・改良農具購入・種子交換などの事業をおこなうようになり、かなりの額の経費を郡費から支出するようになってきた。二十九年度では両郡とも支出費目の第一位を勧業費が占めるようになっている。なお、上高井郡の土木費・同補助費が多額になっているのは、この年の水害により、主要道路や橋梁(きょうりょう)に大きな被害がもたらされたため、その修理費を予算に追加したためであった。
明治二十四年十月、上水内郡参事会は、同郡朝陽村屋島南組の区会条例を議決した。郡長森田斐雄は区会条例も町村条例の一部なので、町村制にもとづき内務大臣の認可が必要であるとして、再議を命令した。しかし、参事会では、町村制の規定は町村条例についてだけであり、区会条例は郡参事会に任せられているので、内務大臣の認可を受けるという規定ではないと反論し、郡長を相手どって行政裁判所へ訴えた。翌二十五年二月、裁判所は、区会条例も町村条例の一種であるので、内務大臣の認可が必要である、とした原告敗訴の判決をくだしている。郡長と郡参事会のあいだに、このような対立もみられたのである。