農談会と米作

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長野県は、福岡県の老農の林遠里(おんり)(勧農社社長)の門弟原田勝三郎を雇い入れ、米作改良試験教手とし、農商係清水三男熊を同監督として明治二十五年(一八九二)五月より、小県郡ほか上水内・更級・植科・上高井の計五郡の篤志農家に試験田を設置させ、比較試作をおこなわせた。このとき、馬耕に用いられた犂(すき)は、「抱持立(かかえもったて)犂」(図6)といい、安定性が悪いために重労働をともなったが、馬耕技術の習得につれて農耕の省力化が進み、深耕による多収穫も明らかとなり、その効用はいちじるしかった。上水内郡三輪村上松の原友次郎は二十七年五月に、清水を通じて馬耕用の犂を注文している。


図6 抱持立犂
(明治17年『勧業月報』第41号による)

 明治十年代に引きつづいて二十年代にも各郡・町村で勧業会・農談会が組織され、その活動も活発化した。明治二十七年三月、上水内郡会から郡長に答申した郡勧業会規則によれば、農商工事業に関する利害得失を調べ、その福利を増進するために談話、試験、品評会、改良農具購入、種子交換の媒介をするとされている。第一回上水内郡勧業会は二十七年九月、各町村から三十余人が出席して郡役所で開かれた。森田斐雄郡長の創立趣旨説明のあと、小山政明師範学校教員の肥料談、清水三男熊の農事についての各種注意、原田勝三郎の種子選択の話、宮沢七右衛門(古里村)の大豆の話のほか、数人の談話があった。また同時に、参考として馬耕の器具、各自の作物、害虫の標本、種子の見本などが陳列され、話題に花を添えた。翌年秋の上水内郡勧業会には福岡県の林遠里が招かれ、米作改良の講話がおこなわれた。同会にあってはとくに会報を印刷して各員に配布するとともに、町村勧業会にも報じて連携(れんけい)を密にした。

 こうした県・郡の活動に対して、町村でも増産に直結する試作が重視された。明治二十四年一月に結成された浅川村農談会は高橋熊次郎、田中清次郎、山崎寛、山崎熊太の四人によって主唱されたものであるが、その総則趣意書では大意つぎのように述べている。「米作の豊凶は天候や地味に影響されるが、耕耘(こううん)の方法も重要である。しかし、農家の多くは旧来の慣習によって耕すのみで、機械を使用したり、学理を応用して省力化する方法を知らない。あるいは実験上多収穫の好結果を得ても、その方法を他人に伝えることがない。したがってここに農事の知識を交換し、その改良進歩を普及する必要がある」と。

 明治二十六年の上水内郡のなかで、各町村の籾(もみ)反収をみると、長野町の四石九斗二升九合、芹田村の四石四斗一升にはじまって柳原村の二石八斗六升五合、長沼村の二石五斗九升九合まで大きな格差があったが、米作増産の実態を長野町試験田の成績でみると、改良田では苗二~四本植えで一坪当たり収量一升九合、在来作(普通田)では七~九本植えであるにもかかわらず坪当たり一升五合五勺にすぎなかった。改良田では苗株の増殖がいちじるしく、かつ肥料も普通田とくらべておよそ半分で済んだ。

 農家にとって肥料代は生産費の大きな部分を占めていたので、その節減が課題とされていた。上水内郡大豆島村勧業会では明治三十年に共同肥料買入組合を結成することになり、一四条からなる規約を議決した。それは有志者で組織され、組合員は年五銭の運営費を負担し、肥料を安く共同購入することを目的とした。こうして各町村では農談会・勧業会の成果として米作改良の有利性がしだいに上層農家・富農に浸透していった。

 このような農談会・勧業会を通じた米作改良のほかに、県尋常師範学校では生徒を農業改良に取り組ませ、学理の重要性を認識させるかたわら、地元に合った農業技術の樹立が期待されていた。明治二十七年十一月、同校の実地農業として、校舎の西にある付属農場を二つに大別し、南の一反歩を二〇区に細分して二〇人の一年生に思い思いの作物を作らせた。生徒のなかにはまるで農業を知らないものもいたため、農業の初歩につかせる目的で、自由に作らせた。北の一反歩は五区画とし、二年生の後期から三年生にあてがった。一年生で栽培のことをのみこんだので、一歩進んで学理を応用し一定の目的をもって試験栽培をおこなわせた。これは学理応用のおもしろさを理解させるものであった。また、師範学校の農科教員は県(あがた)町に沿ったところの水田を借り受け、翌年から米作試験をおこなった。学理を実地に応用して改良法の試験をおこない、長野地方の改良法の標準を作ろうとしていたが、これは当時県でおこなっていた林遠里の改良法とは異なるものであった。