養蚕(ようさん)業の発展は、蚕種の精選や飼育技術の向上に依存する。前者について、蚕種の品質向上をはかるために、明治二十五年(一八九二)一月、更級郡小島田(おしまだ)村に蚕種製造販売にたずさわるものを社員として、川中島精強会社が設立された。社員は、小島田村六人、青木島村一人、真島村三人、稲里村二人の計一二人であった。社員各自が良質な蚕種を製造販売し、その販路の維持拡大のための便宜をはかるものである。この会社では社員の自家製と買い入れとを問わず、販売する蚕種は全部検査した。検査は視察鑑定と顕微鏡検査との二つの方法をとり、良品と認められるものに限り検印を押した。
蚕の飼育技術については、明治二十八年五月二十九日、上水内郡三輪村桐原において五〇戸のうち二八戸の養蚕農家が共同で青木濱之助を養蚕教師として迎えた。飼育規模は掃き立て枚数にして一一枚から二、三枚までの幅があったが、同人の教えを受けたほかに、互いに視察し合い、自分こそ最高の成績をあげてみせようと意気込んで、万事抜け目なく取り組んだ。また、ことに高価な乾湿器を買って、長野測候所の乾湿器と比較検定したうえで、もっとも多く飼育している農家に置き、他の共同農家は毎日これを標準として自家の乾湿器に照合して加減をとった。これによって飼育術も大いに向上し、いずれの農家も好成績をおさめた。でき上がった繭の買い入れについては各地の製糸業地から仲買商人が入りこんできた。明治二十四年六月二十六日付けの『信毎』によれば、繭の出回り始めの時期に長野町へ入りこんだ繭買い商人として、諏訪郡の各製糸会社から四、五人、上高井郡の各製糸会社から十五、六人にすぎないが、週末になると近在近郷に大勢入りこむことだろう、と報じている。
このような努力の結果としての養蚕業の発展ぶりを、まず表21によって桑園の拡大で見ると、明治二十年にはもっとも反別(たんべつ)の少なかった上水内郡では、三十年までのあいだに三・七倍と、いちじるしい増大を示しているが、これはとりわけ山村部での拡大が影響しているとみられる。つぎに、表22で繭の収穫量の増加の程度を見ると、やはり上水内郡が春蚕の繭収量の増加においても、一戸当たり繭の収量においても第一位である。上高井郡の収量の増加率の高さは一戸当たり繭生産量の増加に依存している。秋繭の春繭に対する割合としては更級郡が盛んである。一戸当たりの春繭、秋繭ともに少ないのは、二毛作地帯として春の麦刈りと養蚕の(上蔟(じょうぞく))収繭(しゅうけん)作業が競合するためと考えられる。
現長野市域関係の各郡で捕魚に従事するものはそう多くはない。表23に見られるように、更級郡の二一七戸ないし上水内郡の九五戸にすぎないが、そのうち、専業はわずかで、農業との兼業が多い。とりわけ、小作農家にとっては家計補充の意味をもつ貴重な収入源である。かれらによって得られる漁獲物は基本的には千曲川と犀川の大河川に依存していた。それらの川に沿った各村の漁獲高は表24のようになっている。はや・ふな・こいなどがいずれの村にとってももっとも大きな価額を占めている。さけ・ますの類は、金額的にはわずかであった。明治二十五年十月二十六日付けの長野魚商会社のでき相場はさけ一本一円から一円三〇銭であったが、犀川・千曲川でとれる川さけは一匹八、九十銭から一円一〇銭ぐらいで、安かった。
やや時期的に下がるが、明治三十九年三月三十日の『東寺尾区議事』によれば、一個人より東寺尾の千曲川河川敷(かせんじき)の一角(二五坪、八二平方メートル)に捕魚用工作物を設置したいと県知事あてに許可願いが出されている。絵図では杭を一列に一四本打ち、流れに直角に幅四間三尺(八メートル強)のよしずを張って、使用期間は四月七日から五月三十一日まで五五日間、使用料六三銭と申請している。この簗漁(やなりょう)は四月二十六日に許可がおりた。
明治二十七年の『第二七回長野県勧業年報』の漁獲物の郡別水揚げ額のうち、こいについては、更級郡、上高井郡、上水内郡がそれぞれ二七四円、一五五円、一二七円であるのに対し、植科郡では四三二二円であった。この大きな格差は松代町の養鯉業によることはいうまでもない。同町の養鯉は川の上流の方でもこいを飼っているので、こいの飲みかすの水が流れて来、下流はだいぶ水が悪くなる。こいを飼うものが多い割りには水が不足していた。金魚などは水が悪い方が育つし、色もよく出るが、こいは水が良くなければならない。
親ごいは八、九年から三〇年ほどたったものがよく、一匹で五〇万個ぐらいの卵を産むが、全部育つわけではない。こいが二分(六センチメートル)から三分のときのえさは上等な小麦粉で糊(のり)を作り、五〇万匹に対して糊の乳を五升(九リットル)もやる。こいが八寸(二六センチメートル)までは一〇〇匹に一日五合、一尺(三〇センチメートル)になれば一升五合(二・七リットル)、それ以上二尺までは二升の割りであたえて育てた。ところが、こうしてつづけられてきた松代町の養鯉業は三十年代に入って不振となり、なかには養魚池に稲を植えつけるものもいた。明治三十八年七月十六日付けの『長野新聞』によれば、同町の明治三十年代の生産額と単価は三十三年の三五九四貫(一三・五トン)、一貫目当たり平均価格九五銭から三十七年の三七〇八貫目、同七五銭に減り、それにともなって養鯉池総面積も三十三年の一万七一四〇坪(五・七ヘクタール)から三十七年の一万五八九〇坪に縮小している。同期間内で単価がもっとも高かったのは三十三年(九五銭)、最大の池面積は三十四年(一万八二〇〇坪)、最大の産額は三十五年(四八一八貫目)であった。松代町養鯉業にかげりが出ていたのは明らかである。