明治二十年(一八八七)八月三日、勅令(ちょくれい)第四一号により「気象台測候所条例」が公布され、同条例第六条の「施行規則」が内務省令第一号によって、同年八月十日に公示された。また、同条例第一条による地方測候所の指定が同年十月十一日、内務省告示第四号によっておこなわれ、長野県は上水内郡長野町に設置することを指定された。
この勅令を受けて、長野県知事は、「測候所のありようによってその利益は大きいが、それはひとり農商工業だけにとどまらない。したがって殖産興業をさかんにするためにも測候所は必要である」として、同年十二月の県議会に測候所創設の予算を提出した。賛否両論の激しい応酬(おうしゅう)がなされたが、原案が賛成一九、反対一二で可決され、長野測候所創設の運びとなった。
賛成の中心は、本県の養蚕業育成のための気象観測の重要性であった。反対の主な理由は、時期尚早であることや、特別に測候所を設けずとも、松本中学校に測候の器具をあたえて観測させればよいなどであった。
測候所建築費七一万五〇〇〇円、測候所備付品費三七万一〇〇〇円をはじめとする、需要費・諸給費・報告費・雑費などの合計一五三万七六〇〇円の予算で事業が進められた。
木梨知事は翌明治二十一年、善光寺東方の丘陵地城山にある「健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社」神殿の南西四四メートルの地点(北緯三六度三九分二九秒・東経一三八度一一分四二秒、標高四一八メートル)に敷地一二〇坪(約三百六十平方メートル)を指定、庁舎の構造、測器の購入、気象観測の実習などを、中央気象台に依頼して測候所創設に着手した。
同年十月には、木造平屋建て(三七坪)、露場(四二坪)を完工し、気象観測施設を整備、予備観測を開始した。
翌二十二年一月から長野一等測候所として、気象観測(二四回観測)および統計業務を開始した。そのときの観測要素と測器は表25のようであった。
その後、明治二十四年一月、長野県議会での審議の結果、測候所予算が総額六二円あまり削減され、その結果二等測候所に降格され、六回観測となった。
二十七年からは、長野地方の天気予報の発表を開始、三十一年からは、飯田・松本測候所の開設にともない、長野測候所の管轄区域は、南佐久・北佐久・小県・上水内・下水内・更級・植科・上高井・下高井の各郡と長野市となった。