鉄道開通の影響

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長野・直江津間の開業当時は、列車は二往復運行され、所要時間は三時間三〇分であった。また、運賃は中等・下等の二等級で、中等運賃は下等運賃のおよそ二倍であった。長野・豊野間は下等で九銭であり、当時の米価が一升当たり五銭ほどであったことをみると相当高価なものであったといえる。明治二十一年(一八八八)十二月に開通した直江津・軽井沢間の運輸状況は表27のようであり、三往復の運行に増加された。


表26 長野から東京上野までの運賃表


表27 時刻表と運賃 (明治21年12月)

 鉄道開通による時間的距離の短縮と、旅客・貨物の大量輸送は画期的であった。長野と東京間の徒歩での行程は約六日間を要したが、軽井沢・横川間の碓氷(うすい)峠を鉄道馬車で連絡していたときでさえ、一一時間二〇分で結ばれるようになった。また、明治二十六年に碓氷トンネルが全通すると九時間五分で結ばれるようになった。その結果、鉄道の利用が飛躍的に増加した。とくに郵便物は輸送時間が短縮され、長野からの郵便物は早いものは翌日には東京市内で配達されるようになった。

 鉄道による大量高速輸送は商品流通を大きく変え、それにともなって地域社会の変革の波も大きかった。直江津方面からは生活に欠かすことができない塩が安定的に供給されるようになり、また、鮮魚も供給されるようになった。東京方面からは、砂糖・鉄製品・綿糸・綿布・マッチ・洋品物等が供給され、商品の流通がしだいに浸透していった。また、現長野市域の各駅の発送物資を三十八年の資料をもとにみると、米・雑穀・砂糖・酒・陶磁器・生糸・繭・肥料・石油・種油・麻などであった。ただし、開通当初は、荷物が遅れるなど不都合が多く、発送した荷物のまちまちな到着にとくに製糸業者の苦情が絶えなかった。しかし、鉄道開通による大量高速輸送は、社会に変化をあたえつつあった。すなわち、旧来からの北国街道の運送業者に致命的な打撃をあたえたことと、停車場からはずれた宿場を衰退させていったことである。若槻の新(あら)町をはさんだ稲田・徳間・東条の三町は、北国街道の通運会社の隆盛や投宿の旅人でおおいににぎわっていたが、開通後は新町駅のさびれはもちろん、東条の国内通運継立所や稲田の中牛馬取扱所は開店休業状態におちいった。通運圏の北辺には牟礼駅が、南には長野駅が開設され、街道を通過する荷物は皆無状態であった。けれども、鉄道開通以後に豊野駅と飯山や上高井方面を行き来する荷物の運送にあたり、さらに吉田駅(北長野駅)が開設されると、吉田駅と須坂、上高井方面を結ぶ荷物の運送の必要がありこれにあたった。そのころ須坂町では製糸業が盛んで、鉄道で運ばれる製品や原料、燃料の石炭の輸送におおいに活躍した。

 いっぽう、河川通船にも影響が大きかった。犀川通船などは、いち早く開通した直江津線を売りこんだ。すなわち、松本方面から東京へ出向く客に、通船を利用して更府村三水(さみず)(信更町)まで行き、さらに篠ノ井へ出て鉄道を利用すると便利であることを宣伝し、一時おおいに活況をみせたが、それも篠ノ井線が開通するまでであった。また、千曲川通船は、飯山などの奥信濃との交通手段として活躍しつづけたが、かつての塩の道としての日本海と長野を結ぶ交易の重要性は消え、道路の整備とともに急速に衰えていった。