駅の設置と町並み

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開通当初、現長野市域には長野駅と篠ノ井駅の二停車場が設けられた。現在の北長野駅は、直江津線開通ののち、地元の強い要請で明治三十年(一八九七)に設置開業したもので、昭和三十二年(一九五七)までは吉田駅という名であった。直江津線が開通すると、直接恩恵に浴せない上高井方面から直江津線に直結する道路の工事が始まった。明治二十二年四月には小布施から豊野へ、八月には須坂から長野へ結ぶ道路が開かれた。須坂はとくに製糸業が盛んな地域で、鉄道の利便性に浴したいという関係者の強い要望によるものであったが、鉄道の利用が容易になったものの、豊野あるいは長野は遠かった。そこで可能なかぎり近くに停車場を設置してほしいという願いから、製糸業者を中心に吉田駅設置運動が盛り上がった。吉田村は越後・飯山・上州から長野町に入る街道筋にあたり、吉田口留番所(くちどめばんしょ)があったところで、須坂と直江津線を結ぶもっとも便利な位置にあった。明治二十八年、近郷三〇ヵ村村長が地元代議士の小坂善之助の協力を得て逓信(ていしん)省に請願し、三十年九月一日認可開業した。これにより、上高井方面の貨物は吉田駅に集中することになりおおいににぎわった。

 篠ノ井は、北国街道と善光寺街道の追分にあたる。また、丹波島宿と屋代宿の間宿(あいのしゅく)として栄え、明治になって郡役所や警察署、税務署、郡立乙種農学校などが設立された地域の中心地であったが、直江津線の停車場は二キロメートルほど北に離れた布施高田に開業した。当時の篠ノ井は、千曲川に近く水害の危険もあるということからであったという。布施高田はわずかに民家が点在し、駅前から北国街道にむけて一メートルに足らない幅の草むした道路が細々とつづくさびしさであった。駅名は中心的集落の篠ノ井から名づけたが、しだいに駅前の集落が広がっていった。

 長野駅は善光寺門前町から離れて、旧北国街道沿いの中御所から石堂に通じる源田窪の田園地帯を埋め立てて設けられた。駅舎は木造平家建てで、間口一五メートル、奥行六メートルという小規模なもので、そのうち約半分が下等待合室となった。この駅舎は乗降客の増加にともなって狭いとの不評をかい、明治二十五年に間口四メートルほどの中等待合室が増築された。


写真19 長野駅舎と駅前のようす
(明治26年『長野土産』より)

 長野駅には明治二十三年二月十六日、内閣鉄道局長野出張所器械場(二十六年器械工場と改称)が創業した。この機械場は直江津線建設の着工と同時に直江津に設置され、建設のための工事用列車の組み立て、修理・器具の制作・修繕にあたっていたものであった。直江津・軽井沢間の全線で建設が着工され、工事が進みつつあった明治二十一年当初、この工事の監督と列車運転にかかわる管理は、直江津・軽井沢間のほぼ中央で、県政の中心である長野に置いたほうが業務管理のうえで都合がよい、ということで移転してきたものである。明治二十四年の『信毎』によれば機械三〇台、仕上工場には仕上工七人、旋盤工一一人、組立工二一人、木工場は二〇人、鋳物工場は七人、塗工場は八人、鍛冶工場は二七人、製缶工場は八人、その他機関方・火夫・炭水夫・掃除夫などで合計一二〇人であった。また、建物は煉瓦造(れんがづく)り二棟、木造三棟、総建物面積五三〇坪であった。当時政府鉄道局の工場は新橋、神戸と長野の三ヵ所であったことからすると、時代の先頭をいく大工場であった。


写真20 建設中の国鉄長野工場
(『長野繁盛記』より)

 これらの駅施設は輸送量の急激な増大にともなって、まもなくその機能を十分果たせなくなった。そこで、直江津線駅改良工事が早くも明治二十九年から始まった。長野駅は、二十九年中に用地買収が終わった。工場移転用地もあわせて実に一万四〇〇〇坪であった。新しい二階建ての駅舎と長野工場が完成したのは明治三十七年であった。

 直江津線が開通したとき、長野駅周辺は人家はほとんどなく、わずかながら栗田に点在するのみであった。駅が開業すると、旅館藤屋をはじめ五明館、やまや旅館が駅前に三階建ての支店を出した。また、いくつもの茶屋も店を出し、たちまち末広町ができあがり、中央通りを形づくっていった。

 停車場から長野市街への道路は、開業時にできたのが鉄道第一線路(末広町通り)、つづいて第二線路(石若(いしわか)町)、そして第三線路(千歳町通り)が開通した。

 第三線路は、鶴賀町の有力者たちが明治二十一年一月、直江津線開通に先立って会合を開き、停車場から裏権堂まで一直線に新道を開通することを協議した。翌二十二年には上水内郡長らが実地検分をおこなっている。工事は二十二年九月までには完成し、人々の往来に便利をあたえたが、正式な開通式は明治二十三年十一月三日の天長節に挙行された。開通した三線路は、幅四間、延長六〇〇間あまりで、工事費用は五〇〇〇円余であった。

 長野町は、明治から大正にかけての県庁の新築、鉄道の開通などを契機として、表28のように、漸次道路が新設され、新しい町が形成されてきた。


表28 道路の開通と市街地の形成

 伊勢町から城山に登る田島新道は、明治十九年八月四日に開削起工し、二十年十一月十九日に開道した。