道路・橋梁の整備と交通

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道路の整備は、県の事業であった「七道開鑿(かいさく)」事業と、信越線の開通を引き金として大きく前進した。七道開削の事業は、「道路県令」と呼ばれた大野誠によって推し進められた事業で、碓氷(うすい)峠や上田・松本間など七道、総延長約百九十四キロメートル、一〇間幅の新道を開削し、県内外の人や貨物の交流を円滑にしようとする目的をもったものであった。開削費六三万円のうち二一万円を国庫補助、三一万五〇〇〇円を地方税、一〇万五〇〇〇円を有志の義援金にもとめ、七年間で完成する計画で推し進められた。この事業は、とくに製糸家を中心とする新興勢力の賛成を得て推進されたが、県民負担も大きかった。義援金に対する申し込みは意外に多く、一四万四〇〇〇円あまりに達したが、その後の松方デフレの影響もあって納入成績は悪く、最終決算の明治二十五年(一八九二)度になっても一〇万円にも満たないありさまであった。とくに七道にほとんど関係をもたない現長野市域を含む上水内郡は納入率が悪かった。

 七道開削事業にあたって、県はこれに接続する幹線道路の整備も進めた。このうち、二十一年の臨時県会では高府街道(長野町・大町間)の改修が決議された。信越線開通にともない、北安曇郡や西山一帯の人びとの鉄道利用増大が予想されたための改修であった。この議決に先立ち、長野町はじめ関係一七ヵ村が連合町村費から四五〇〇円を、大町では五五〇〇円を寄付することとした。工事は二十二年から開始されたが、七二会(なにあい)村地籍の難工事で経費が増加し、工期ものびて二十八年にようやく完成した。


写真21 七道開削費寄付への賞状
(中島凡夫所蔵)

 鉄道開通とともに開削された新道に、小布施街道がある。明治二十一年に信越線が開通すると、上高井郡小布施村の樋田(とよた)正助・高井辰二らの有志が小布施から豊野駅に達する約三十五町(約三千八百メートル)、幅員二間半(約四・五メートル)の道路を開削し、二十二年四月に開通した。五八〇〇円の工費およびのちの修繕費はすべて、小布施村有志等の寄付や負担でまかなった。上高井の製糸業者の、悲願の道で、吉田駅ができる三十一年までは、上高井・下高井・下水内の三郡と鉄道を結ぶ道路として利用度も高かった。この道路は、二十八年にようやく県道への編入が認められた。

 道路の改修とともに橋梁の整備もすすめられた。国道でありながら丹波島船橋会社の経営で通行料を徴収した丹波島船橋が、木橋に生まれ変わったのは明治二十三年九月であった。丹波島宿の柳島仁十郎ら一三〇人が丹波島架橋会社を設立して着工したのである。長さ三九二メートル、幅五・四メートルの架橋は、当時としては地方ではまれにみる大工事であった。設計は新潟県長岡の猪又五郎吉に依頼し、地元のすぐれた棟梁(とうりょう)たちが一生の名誉にかけて腕をふるったと伝えられている。


写真22 丹波島橋 (『長野県案内』より)

 架橋は一般的に県や郡など公費によるものが多かったが、個人や組合・会社などの私費でおこなわれたものもあった。私設の橋梁の多くは、利用者から橋銭を徴収したが、丹波島橋はその代表的な橋であった。当時の渡銭料は一銭五厘で、割高なこの料金は丹波島新橋の一失として新聞でも批判された。それによると、戸数一五七戸の真島第一区では、船橋のときは三ヵ年二四円の地区契約であったが、新橋架設以来一五五円になり、そのうえ各人の野菜や肥料の運搬には別に徴収された。真島第一区は、堤防工事の関係もあって特別契約で一五五円になっていたが、その他の村は、このような関係もないのでいっそう高額な支出になっている。さらに近隣の里道には五ヵ所の船橋があり、橋銭を合わせると巨額になるので、地方税で買い上げるべきである(『信毎』要約)としている。これらの声が高まったこともあって、三十年の県会で、国道五号線(一八号線)の丹波島橋は、更級郡塩崎村の千曲川にかかる篠ノ井橋とともに、県営にする建議が可決された。知事はこれを受けて県営に移管した。

 犀川通船を松本から善光寺までを運航したいということは、江戸時代からの通船業者の強い願いであった。新町(信州新町)より川下は弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺大地震により大きく異変を生じ、難所で通運不可能であった。弥太郎(やたろう)滝(久米路橋付近)は消滅し、新たに岩倉山が崩れて犀川をせきとめたあとの河床に、岩倉滝の難所が出現した。岩倉滝の難所は、明治になって開削を試みたがうまくいかず、犀川通船は従来の新町までの運航が主であったが、ときによっては岩倉滝上流の更府村三水まで運航された。明治二十五年二月三日の『信毎』に掲載された犀川通船会社の公告はつぎのようである。

県下南北の間、東筑摩郡松本町より更級郡更府村三水に至る犀川筋において、本日十日より時間船回送の業を始め、旅客の乗船、貨物の運送を営み候につき、左に各項御熟覧の上ご乗船あらんことを希望す。

 これによると、時間船は毎日午前六時に松本を出発し、正午一二時に三水に到着する。乗客は、これから峠を越えて篠ノ井停車場に行けば、上(のぼ)り下(くだ)りの三番列車に乗車することができるとある。松本方面から信越線を利用して東京に向かう客を意識しての運航であった。このため当時運行していた松本・上田間の時間馬車は、少なからず影響を受けて運賃を値下げしている。しかし、犀川時間船は定められた時間どおりに運行できないことが多く、転覆(てんぷく)などの事故もしばしば伝えられている。松本・三水間の船賃は三〇銭であった(明治二十五年)。のちに、犀川通船は明治三十五年国鉄篠ノ井線の開通によりおとろえ、さらに犀川線道路開通(のちの国道一九号線)にともなって姿を消した。