松代製糸業の発展

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明治二十年代の製糸場は、長野町の長野製糸場(明治二十一年の工女六五人)のほか、年によって上水内郡三輪村北島製糸場(二十四年同五八人)、更級郡塩崎村愛交社(工女一人)、御厨(みくりや)村堀内製糸場、小島田村小林製糸場、東福寺村松木製糸場が明治二十一年『長野県勧業年報』・同年『長野県統計書』ほかの史料に散見されるが、二十五年(一八九二)五月の松代町には六工社(工女二三〇人)、松代製糸会社(同二七〇人)、二工社(同五〇人)、三工社(同一〇〇人)が、またその隣接村の東条村の松城館(しょうじょうかん)(同三五〇人)、西条村六工(ろっこう)社(同一五〇人)がきわだっている。


写真23 西条村六工社 (『松代附近名勝図会』より)

 三工社は村松佐十郎が明治二十二年(一八八九)に設立した一〇〇人繰(ぐり)の製糸場である。蒸気缶(ボイラー)に必要な薪(まき)は一日当たり平均三五〇貫目(一三一二キログラム、代金四円一二銭)かかっていたが、肝心の水の不足には悩まされた。一個の井戸水のみが頼りで、最良の繭でつくった生糸も湯をかえないためにその光沢を失い、社長や工女の苦心も水の泡となることがあった。それだけではなく水不足で営業できないことさえあり、製糸用の深い井戸を掘ったとき、馬場町付近の井戸はおおいにその水量が減り、この分では真夏の酷暑が思いやられると町民から苦情をいわれたいきさつもあった。二十四年になると大里忠一郎が三工社を借り受け、同工場の帳場だけは六工社と区別していたが、そのほかはすべて六工社の分工場として運転した。

 六工社は、ニューヨーク(アメリカ)の機織工場から注文を受けて生産するほどに信用があった。その直接輸出した各生糸には一繰りずつ担当工女の名刺を添え、不良品があったらその名刺とともに報告してもらうことにしていた。工女の配置は蒸気元に優等工女を、その左右に中・下等工女を配置して、前者から指導を受けた。工女間の談話はあえて禁止しなかった。それは明け方からの労働の疲れからくる倦怠(けんたい)感を少しでもぬぐうためであった。

 工場のなかには赤黒地の塗板が掲げられ、そこに書きこまれた厚繭何粒と薄繭何粒付けによって都合何デニール(糸の太さの単位)の糸を引(ひ)くようにと指示された。製糸場内の貯繭倉庫では数十人の工女が、地元をはじめ茨城県や埼玉県から集められた繭を選別し、六等級に分けた。このようなきびしい分別(ぶんべつ)はほかでは少なかった。一等繭は熟練工女に、二等繭は見習い工女に挽かせ、三等繭以下は座繰(ざぐり)用とした。優等工女は一日平均春繭で九升ないし一斗(一八リットル)、秋繭で一斗二升五合を糸にした。これによって得る優等工女の一ヵ月賃金は七~八円、下等工女の場合は一円五〇銭~二円ぐらいまでであった。この六工社工女賃金を県内他地域の製糸業と比べてみたのが、表30である。六工社は下伊那郡喬木(たかぎ)村の長谷川組や諏訪郡の三製糸場と比べて上等賃金は格段の高さを示している。


表30 工女1日当たり賃金

 六工社のこの時期の特徴としては、社内部に新築した作業場で蒸気缶(ボイラー)などを製造するようになったことである。現に三、四ヵ所から申し込みを受けていた。同作業場の責任者はもと県属の山本正路で、長年、東京三田の政府機関の工作部門で研究を重ねていたものである。これによって従来、横浜から器械を買い求めた場合、運賃は器械の価格と伯仲(はくちゅう)するほどであったが、その半値で器械一式を手に入れることができるようになった。

 松城館は館長窪田栄三郎以下数十人の株主による賃繰(ちんぐ)り営業会社で、九貫目(一梱(こり))当たり五〇銭の製糸費用で請け負った。釜(かま)数三二五個、工女総数三八〇人で、うち通勤は一〇〇人であった。工場は二棟あり、いっぽうの一〇〇釜工場には熟練工女をいれ、他方の二五〇釜にはふつうの工女をあてた。優等工女のなかには繰り桝(ます)数・糸質・光沢・無節などの成績から一等賞金一円と皆勤賞金三〇銭、繰賃を合わせて、二十四年八月中に九円八〇銭ほどを得たものが数人いた。工女は町内のものが多く、一ヵ月三回の休みをあたえられた。


写真24 松城館製糸場(明治35年) (野中武所蔵)

 小山鶴太郎を社長とする松代製糸会社は、六工社・松城館につぐ規模であった。同工場は座繰製糸に始まったが、さらに進んで器械製糸もおこなうようになり、二工場が併設されていた。いま二十七年の同製糸会社の生産状況を六工社のそれと比べてみると、表31のようになっている。松代製糸の器械糸は一釜当たりで一〇・九貫(四〇・九キログラム)、原料繭一石当たりでは〇・八八貫であるが、六工社はそれぞれ一一・六貫、〇・九〇貫と、その効率の良さが指摘できる。しかし、他方で男女工一人当たりでみると、それぞれ八・五貫と五・八貫となっている。六工社の繭選別の厳密さ、労働集約性があらわれている。


表31 松代の製糸業 (明治27年)

 工女の集約性は高品質の生糸の生産と密接な関係があり、品質を高めるためには工女に対する取り締まりと工場内教育が必要であった。六工社で開かれた製糸事業研究会の研究成果が冊子にされ、他の工場の工女に配布されることもあった。また、教育の目的はそれのみならず、将来、結婚後の教養ある母親のあり方が問われ、松代の地で落ちかかっていた風儀を再び引き上げようとする意味もあった。こうした考え方が生まれる背景には、工女の多くが地元出身者で占められていたという状況がある。こうして優等工女数が増加するいっぽうで、明治二十五年ごろになると、松代町に住み、須坂の東行社に雇われていた男子社員が、有能な松代町製糸工女二〇人ほどを須坂へ振り向けたと『信毎』で報道された事態もみられるようになっていた。